金沢まち・ひと会議

| 日曜日 11 1月 2015

金沢ヒストリア ~金沢の宗教と都市~

中世、荘園支配からの脱却を目指し、全国初ともいわれる宗教自治都市を成立させた金沢。圧政に苦しむ農民と一向宗が結びつき「百姓の持ちたる国」ともいわれた。現在の金沢城は、もともと一向宗の本拠、金沢御堂あとに建てられたものである。また、当時、金沢御堂へのアクセスであった甚右衛門坂の下、金沢商工会議所から大谷廟周辺は一向宗の寺内町として栄えていた。

その後、織田信長の重臣で北陸地方の平定を任じられていた柴田勝家の命により甥である佐久間盛政が一向宗を討ち、金沢御堂あとに居城を構え金沢を制圧する。しかしわずかその3年後、信長没後の主導権争いである賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が敗戦。秀吉が天下を取り前田の殿様ご入城となるのである。しかしこの合戦の敗因が、勝家の忠告を聞かず秀吉陣の奥深くまで攻め入った盛政の戦略ミスと、途中で戦いを放棄し退却した前田利家軍にあると言われているのは皮肉でもあり、また「金沢」が大きく歴史に関わった一ページともいえる。

さて、前田利家は秀吉による伴天連追放令後、親しかった高山右近を庇護し、右近の家臣や右近を頼って来た武将や藩士をはじめとするキリシタンが多く金沢に移りすんだ。彼らが移り住んだというのが、前出の甚右衛門坂を下った地域、元々一向宗徒が住んでいた地域というのがまた皮肉である。

右近は築城の名手であった。金沢城の初期の築城には関わっていないが、火事で焼けたあと建てられた菱櫓は彼の設計とも推測される。京都南蛮寺と階層組みや屋根形状などで共通点が多く、キリスト教建築の特徴も垣間見える。翻ってみると、明治初期に卯辰八幡社より前田利家公のご神体を遷座し、建てられた尾山神社の神門も単なる擬洋式建築を超え、ステンドグラスやアーチ型の門梁、レンガ色の石張りなど教会建築にもみられるデザインファクターが多く存する。元加賀藩お抱え大工のデザインとみられ、もしかすると江戸草創期の右近をはじめとするキリシタンの影響が金沢建築に残ったのかもしれない。

(つづく)