当たり前の話ですが、金沢のまちは変化し続けています。
まちの変遷をどのように読み取るか?
そういったことを大学では研究しています。
金沢はまちの中で普通に歴史が重なって併存しています。だからこそ読み取りが面白いのです。特に面白いのは「狭間」にある地域。つまり、超・現代的でもなく、歴史的保全地区でもないところです。そういったところに、特に金沢らしさが見えます。
事例として歴史ある地域ですが、尾張町と東山に挟まれた「狭間」の地域である「下新町」を取り上げてみましょう。ここは旧町名復活の制度で、まちの名前を古いものに戻した地域です。
ここではよみとりかたの例として、地図をなぞってみます。
まず江戸時代の地図のよみとりです。
金沢では江戸時代のまちの地図が容易に手に入ります。玉川図書館などがおすすめです。
では図書館で手に入れた江戸時代の地図をよみとってみましょう。
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これは延宝年間(1673年〜1681年)の地図を分析した図です。現在の久保市乙剣宮のある周辺の場所ですが、この当時は神社は卯辰山に移転しており、お屋敷用の敷地となっています。
また、水のある場所は人が集まるので市場ができ、人が集まる場所となったのです。
この「市」が常市だったのか、たまに開かれる市だったのかはわかりません。でも、とにかく市場というのは交易の場として、都市の基礎をいつだってつくるしかけなのです。
そして次に手に入った地図は明治38年の地図でした。
さて、どう変化したでしょうか。よみとってみましょう。
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卯辰山に移動していた神社がもとの場所に戻ってきましたね。
他にも大きな変化があったのですが、お気づきでしょうか?
神社の前の道が表通りにつながったのですね。それまでは裏通りは独立して静かな場所だった(室生犀星もそういっています)のですが、この時期は一気ににぎやかな場所となりました。芝居小屋、寄席、ビリヤード場など、今では想像がつかないようなお店がならんでいました。一方、この時期に都市の基礎となる機能である市場は 近江町に移っていきました。
次回は昭和の変化についてお話しします。
※1 内田奈芳美「地方都市中心市街地内の「狭間の地域」の将来像」日本建築学会学術講演梗概集F-1 pp. 73-76(2010)