金沢まち・ひと会議

| 水曜日 17 2月 2016

金沢・ひと

その人が言う。「お金は、いらんし」
父が返す「いや、そんな訳にはいかんし」

「‥‥し」と金沢弁での話し声が聞こえる。
蒔絵師の父が、いつもは注文していない木地師のその人に、
硯箱の筆先に付けるキャップの木地を注文したものの注文通りにごく薄作りの木地は出来なかったのだ。
2個あれば良いのだが、その5~6個はどれも薄いところに穴があいてしまっていた。
きっと沢山作ってはみたがどれもうまくいかず、
そのうちの良さそうな5~6個を持って来て出来なかった旨を伝えている。

その人は出来なかったから代金はいらないと言い、その5~6個のキャップを置いて帰ろうとし、
父は仕事をしてもらったのだからその分の代金は払うと言っている
父はその仕事がとても繊細かつ難しいことは充分承知している。
器用な父は以前にそのキャップの木地を自身で作り蒔絵をしてもいる。

結局、代金を受け取ることなくその人は帰られた。
父は、後で別の注文を出して帳尻を合わせることにしたのだった。

 
2−1蒔絵と筆

 
加賀蒔絵の木地はとても繊細だ。
ひとつひとつ形が違い隅や角が多く、なおかつ厄介な薄作り。
そしてさらに精巧堅牢な塗りをしないと、かの精緻かつ清雅な加賀蒔絵とはならない。
目に見える仕事の数十倍緻密な見えない仕事の上に成り立っている

薄作りも厄介だが、複雑な形の隅や角をシャープに仕上げるには大変技術が要ることは
塗りも蒔絵も同じこと。

指が届かない隅などをどうやって仕上げるのか、木地師さんも心配してくれる。

しかし、緻密さや精巧さという技巧が目につくような仕事は「いやらしい」と一番に避け、
ひとからも嫌われる。
技が目につかぬよう、ただただその味わいや品格を求めている。
そのための必要技巧でしかない。

周りの空間や心持ちとの調和こそが命だ。

祖父は木地を特別吟味し、名工に頼んでいた。
「木地が悪くて、いいもん出来る筈がないがや。どんだけ高くても(高価格)いいもんにしとかないかん」いつも言っていた。

40年50年ももっと経って今よりもっと良くなるようにしとかんといかん」

200個ぐらいの挽物木地を作り、そのうち2~3個だけ使えたというほど吟味したものもあったと祖父からも、
祖父の没後に祖父はそうしていたと他の人からも聞いた。

祖父は挽物以外の木地のほとんどを木地師の市島栄吉さんに頼んでいた。

金沢の木地師らしく、箱などの指物はもとより、刳り物、曲物(曲げワッパ)、桶まで、挽物以外、何でもされた。
また、そうでなくては加賀蒔絵の木地にはならなかった。
全ての要素が含まれる木地がほとんどだからだ。

塗りも同じこと。塗りの名工も居た。

祖父や父の注文図面を見ると、フリーハンドの形状と外寸内寸厚みなど数カ所のみ書いてある。
子供心にもこれで大丈夫なのかと尋ねたこともある。
「ものの感じを解っているから、それで充分ながや。思っとったのと違ったことはない。名工や。」
と祖父は市島栄吉さんのことをそう結んだ。

その、「感じ」というものを共有出来ている人となら仕事が出来る。(うまくいく)し、
そうでなければどれだけ苦心したところで、いいもの思ったものは出来ないと言う。

私もその市島さんにお世話になっていたが、木地図面は他の方に倣い製図調のものを渡し注文していた。
ある時、とても複雑で模型が必要かと思える図面を持って行った。
いつものように、カンナ屑のついた仕事着物は着替え直し、「お待たせして」と笑顔で応対してくれる。
ややこしく言葉を選び詰まりのよく分からない説明を無言で聞いてくれた後、

「ちょっと待って」と厚紙と小刀を持ち出された。

図面を横目にフリーハンドで40㎝程の曲線を厚紙に一息に切り、
その切られた厚紙を図面の曲線に合わせて「これでいいですか?」と一言。
寸部たがわず厚紙と図面の曲線はピッタリ合っている。
びっくり仰天。
「はい。結構です、、、。」

次に継ぐ一言もあるはずは無く、帰ることになった。

この時のことは、ずっと忘れない。
その時そのものを今でも私の中に持っている。

後日、木地が出来上がった。思っていたのとは違う。
違う筈だ。自分が思っていた事を図面に出来ていなかっただけの話だ。
木地図を寸法どおりどれだけ正確に書いて寸法どおりに作っても
思った感じ通りということになった試しがない。

「感じ」は 寸法では表せない。

いや、感じだけではない。実際蓋の下り具合など手で書く図面にはできない。
挽物であれば、幾つもサンプルを作り修正していく。
そして完成を予想しつつ塗りでも調整を積み重ねる。

心に深く響いた言葉がある。

木工の2代池田作美さん宅へお伺いした際、
お仕事場で作業を拝見しながら話が初代池田作美氏作の作られ棚に及んだ。
指物、刳物、透かしなど、作ることを考えると気の遠くなる棚だが、
素晴らしく美しい。

「私の父ながら、本当にいい仕事をした偉い人やと思うわ。」

と控えめすぎる2代目さんがしみじみ一言、口に出された。

決して人前で身内を褒めたりしないであろう人の
工人から工人への畏敬の念とともに清しい清しい忘れられない一言だった。

私の祖父は「いちがいな きかん ひと」とよく言われた。

聞いた話では、祖父が塗り上げた品物を買おうとした人が、
これには下地に布が貼ってないだろうから安くしろと言ったところ
祖父はその場で近くにあった火箸でその仕上がった塗面を掘り起こし、「布は貼ってある。」と言い放ち帰ったという。
見た目に薄造りでそう思ったのか、値段を下げるために外見からは証明出来得ない総麻布張りという工程を疑う言葉を発っせられたのだろう。
その場に置いて帰ってたのか持ち帰って捨てたのかはつまびらかでではないが、
もう使いものにはならない。

目立たない場所を堀返す筈もなく、一番の見どころをそうしているに違いない。
持ち帰ったところで、その部分を塗り繕い直せても、良い漆を使う程のちのち繕ってあることが鮮明になってくる。

ケチのついたものすぐに捨てるに決まっている。

また、香炉など載せる卓を納品に行った際に、注文主が「とてもすっきり思い通り出来て嬉しいわ。綺麗やしあんまり重いもの乗せれんかね。」と言ったら、
その卓の上でトントン踏んで見せた。という話も聞いた。

蒔絵がしてあったのどろうか。塗りだけのものもあれば、螺鈿だけのものもある。
卓の上でジャンプして見せたということだが、体の小さかった祖父ならまだしも、
自分であればどうだろう。

金沢に自動車が初めて登場したとき、自動車を漆塗りしたもと聞き、
何気ないときハイカラなところもあったことを忍ばせることもあった。

布に例えると麻のような祖父であった。

かつて、天皇陛下のお召し列車は漆塗り、
現在の国会議場は金沢からも多くの職人が出向き漆が塗られたという。

父は、病弱ながら蒔絵に一意専心。外に出る事はほとんどなかった。

仕事関係でも祖父、母の顔はご存知でも父の顔を知らない人は多かった。
そして、父が怒った姿を見たのは一度きり。怒ることのない人であった。
私も一度も叱られたり怒られたことはない。

木綿のような感じがするひとであった。

ひと昔前の金沢の職人さんたちの逸話は巷に尽きない。
誰もが職人に手を取らす時間を慮りつつ優しくもあり、厳しかった。
皆、思い出を持っている。

私が仕事をし始めた頃でも、
いつもベレー帽を被っておられた方や、いつどのような場へ出向く時も素足に下駄を突っ掛けて上着を着ることはなく
折り目の跡など微塵もない短めのズボンという同じいでたちの方もおられた。

漆のひとには一風風変わりなひとが多いのかと、
外見についてだけは いぶかりつつ父に問うと「彼には 主義がある」と返した。
その青若い自分を今はとても恥ずかく思う。

ある方から、羽織袴で納品に訪れられた陶工に感服至極であったというお話も聞いている。

金沢は様々な職人で溢れていたのだろう。
皆、職分は違えど腕のいい職人に畏敬の念を持ち、憧れ、そうなりたいと精進し、
そして外には出さないが心に敬意をもって接していた。

同業であろうが、なかろうが。籠屋であろうが、庭師であろうが。

そして親であろうと、ひとりの作り手として敬意を持っているに違いない。
そのことを決して存命のうちに漏らす筈はないのだが。

 
2−2土塀・松

 
謡の降る町、空から謡が聞こえるという金沢。
松の剪定が必要なお屋敷で庭師が松葉を透かしつつ謡を口づさんだのだろう。

「庭師入れるのが一番気が張るがや。」と皆そのように言う。
「お昼(昼食)へんなもん出せんし。」

庭師さんはきれいな仕事をして、美味しいもの食べられていいなぁ。
と子供心に思ったものだ。

祖父は猫の額ほどもない庭などとはけっして言えない我が家の背戸の石を買うのに、
年端もいかぬ私を連れて行ってくれた。
そして庭石と呼べぬほどの幾つかの石を購入したが、「どれが好きや」と言い、
そのひとつは一番好きと言ったシルクハット形の石を買ってくれた

後日、庭を堀り丸太櫓でその奇妙な形の石や踏石を据える光景を飽かず見入っていた。
あと20年するとここの木はこうなるし、と遠い先を見詰める老庭師であった。

石のひとつを私の一番好きな石にしてくれた嬉しい嬉しい記憶だが
今、この文章を書きつつ思い返すと、
その珍奇な石を庭に据えれるよう祖父と庭師さんが相談して他の石を決めたのだ。

今、解った。
そうでなければ、この小さい庭にこの珍奇な石は納まらない。
今、その帽子石の存在感のあった鍔は七分かた苔に覆われている。

 
2−3シルクハットのような石