宮川 | 今日はいつもみんなで議論している『工芸建築』についてなんですけど。そもそもそれって何なの?ということを再確認する場にしたいです。 |
秋元 | 工芸建築という概念はいきなり出てきたわけじゃないよね。工芸のこれからの可能性を考えるうちに、ひとつの展開として「工芸を建築的スケールでやるとおもしろいんじゃないか?」と。近代的な美術はすべてそうなんだけど、「建築・美術・工芸といえば建築・美術・工芸をつくること」という、いわばフォームが目的としてあった。ところが最近は「工芸をやるために工芸をつくることの何がおもしろいんだろう?」って思うようになった。工芸の最終的なアウトプットを作品のなかだけで考えるんじゃなくて、工芸をリソース化していくと何が起こるのか? |
宮川 | 工芸を資源として考える…? |
秋元 | そう。「工芸に閉じる」のではなく「工芸から開く」というかね。開かれた資源として考えるとおもしろいんじゃないか。建築は芸術表現のなかで最も多様性がある。複合的な要素もある。それで『工芸建築』と称してみて、建築のなかで考えるというテーマをもったわけですね。 |
宮川 | 浦さんや小津さんは建築を仕事にしている。工芸と建築の相性ってどうなんですか。 |
浦 | もともと工芸と建築は共存してましたよね。工業化が進むなかで建築はシステマティックになって、使っている材料は限定的な工業製品ばっかりになった。ひとむかし前の近代建築や寺社仏閣は、ふつうに工芸と建築が融合してるんですよ。じつは、いまの建築のほうが異常だったりする。 |
秋元 | 工芸をアウトプットした製品として考えると、工芸と建築ってすごく離れているように見える。でも工芸的な取り組みや工芸的なものとの向き合いかたは浦さんが言ったことに通じる。つまり、理念があって、プランがあって、図面があって、それを実現するために建築がある…って考え方では工芸的な要素はなくなる。むかしは目の前にある材木をころがしながら「これはまっすぐだから大黒柱にしよう」とか「こいつは屋根を支えるものにするといいね」ってやってたよね。それを工芸的と言えるどうかは別だけど、ある種の身体的なものとの関わりから引き戻してつくることは、工芸的な関わりであると言ってもいい。 |
宮川 | 工芸的というのは、ある意味、おもしろい建築に回帰していくことなのか? |
小津 | 順番がひっくり返るとおかしなことになる。工芸作家にパーツをつくらせて建築につける…ってやったら「建築工芸」になって「工芸建築」じゃない。むかし大学で教えていたときにヘンな課題を出したことがあって。「日本刀一本をつくるような建築をつくってみよう」とか「F1のクルマをつくるようなコンセプトで建築をつくろう」とか、ひとつのコンセプトをもって建築をつくろうと考えたことがある。建築計画が“計画学”になってしまうというか、建築は複合的になりすぎた気がする。工芸的なものを採りこむことで建築そのものもおもしろくなるはずです。 |
浦 | 国会議事堂は換気扇もひとつの金物としてつくっている。寺社仏閣もそうですね。近代建築には重みがあるし、圧倒的なものがあります。だけどいまはカタログから部品を集めてきて「ここの空間にどういうパーツがあるべきか?」なんてやってしまうから。そもそも論的な考え方ができていない。「F1のクルマをつくるようなコンセプトで建築をつくろう」という感覚がなくなってきている。そういう意味では工芸建築は回帰していくことと言えるかもしれない。 |
宮下 | 建築が工業化するなかで、工芸も工業化していく現状がありますよね。カタログにあるものを作家につくってもらうという。身体的なものやインスピレーションから生まれてくるものの価値とか、文化を背負ったものという価値からどんどん乖離している。だんだん“お土産工芸”みたいになってきた。作ること自体が本来の目的になってしまって、 そもそもの価値がなくなってしまったんですね。建築のほうも部材や材料を厳選することがなくなって、それが工業化という言葉にくっついている。いまの大多数の建築がそれですよね。近代建築や寺社仏閣に重みがあるのは、土地から生まれた材料をどんなかたちで切り出すかや、 経年変化によってどんなふうに風化していくかを、作り手側が想像するなかでやってるからでしょ。それって非常に工芸的な要素が強いですよね。 |
宮川 | 作ることが目的になった時点で建築と工芸のボーダーラインがわからなくなってきた? |
宮下 | 工芸建築って、もしかしたらそれをとり戻すことなのかもしれない。建築家が空間をつくる意味を考え、工芸側からも考える。両方から歩み寄っていくものだと思います。 |