その人が言う。「お金は、いらんし」
父が返す「いや、そんな訳にはいかんし」
「‥‥し」と金沢弁での話し声が聞こえる。
蒔絵師の父が、いつもは注文していない木地師のその人に、
硯箱の筆先に付けるキャップの木地を注文したものの注文通りにご
2個あれば良いのだが、その5~
きっと沢山作ってはみたがどれもうまくいかず、
そのうちの良さそうな5~
その人は出来なかったから代金はいらないと言い、その5~
父は仕事をしてもらったのだからその分の代金は払うと言っている
父はその仕事がとても繊細かつ難しいことは充分承知している。
器用な父は以前にそのキャップの木地を自身で作り蒔絵をしてもい
結局、代金を受け取ることなくその人は帰られた。
父は、後で別の注文を出して帳尻を合わせることにしたのだった。
加賀蒔絵の木地はとても繊細だ。
ひとつひとつ形が違い隅や角が多く、なおかつ厄介な薄作り。
そしてさらに精巧堅牢な塗りをしないと、
目に見える仕事の数十倍緻密な見えない仕事の上に成り立っている
薄作りも厄介だが、
塗りも蒔絵も同じこと。
指が届かない隅などをどうやって仕上げるのか、
しかし、緻密さや精巧さという技巧が目につくような仕事は「
ひとからも嫌われる。
技が目につかぬよう、ただただその味わいや品格を求めている。
そのための必要技巧でしかない。
周りの空間や心持ちとの調和こそが命だ。
祖父は木地を特別吟味し、名工に頼んでいた。
「木地が悪くて、いいもん出来る筈がないがや。
「
200個ぐらいの挽物木地を作り、そのうち2~
祖父の没後に祖父はそうしていたと他の人からも聞いた。
祖父は挽物以外の木地のほとんどを木地師の市島栄吉さんに頼んで
金沢の木地師らしく、箱などの指物はもとより、刳り物、曲物(
また、そうでなくては加賀蒔絵の木地にはならなかった。
全ての要素が含まれる木地がほとんどだからだ。
塗りも同じこと。塗りの名工も居た。
祖父や父の注文図面を見ると、
子供心にもこれで大丈夫なのかと尋ねたこともある。
「ものの感じを解っているから、それで充分ながや。
と祖父は市島栄吉さんのことをそう結んだ。
その、「感じ」
そうでなければどれだけ苦心したところで、
私もその市島さんにお世話になっていたが、
ある時、とても複雑で模型が必要かと思える図面を持って行った。
いつものように、カンナ屑のついた仕事着物は着替え直し、「
ややこしく言葉を選び詰まりのよく分からない説明を無言で聞いて
「ちょっと待って」と厚紙と小刀を持ち出された。
図面を横目にフリーハンドで40㎝程の曲線を厚紙に一息に切り、
その切られた厚紙を図面の曲線に合わせて「これでいいですか?」
寸部たがわず厚紙と図面の曲線はピッタリ合っている。
びっくり仰天。
「はい。結構です、、、。」
次に継ぐ一言もあるはずは無く、帰ることになった。
この時のことは、ずっと忘れない。
その時そのものを今でも私の中に持っている。
後日、木地が出来上がった。思っていたのとは違う。
違う筈だ。
木地図を寸法どおりどれだけ正確に書いて寸法どおりに作っても
思った感じ通りということになった試しがない。
「感じ」は 寸法では表せない。
いや、感じだけではない。
挽物であれば、幾つもサンプルを作り修正していく。
そして完成を予想しつつ塗りでも調整を積み重ねる。
心に深く響いた言葉がある。
木工の2代池田作美さん宅へお伺いした際、
お仕事場で作業を拝見しながら話が初代池田作美氏作の作られ棚に
指物、刳物、透かしなど、
素晴らしく美しい。
「私の父ながら、本当にいい仕事をした偉い人やと思うわ。」
と控えめすぎる2代目さんがしみじみ一言、口に出された。
決して人前で身内を褒めたりしないであろう人の
工人から工人への畏敬の念とともに清しい清しい忘れられない一言
私の祖父は「いちがいな きかん ひと」とよく言われた。
聞いた話では、祖父が塗り上げた品物を買おうとした人が、
これには下地に布が貼ってないだろうから安くしろと言ったところ
祖父はその場で近くにあった火箸でその仕上がった塗面を掘り起こ
見た目に薄造りでそう思ったのか、
その場に置いて帰ってたのか持ち帰って捨てたのかはつまびらかで
もう使いものにはならない。
目立たない場所を堀返す筈もなく、
持ち帰ったところで、その部分を塗り繕い直せても、
ケチのついたものすぐに捨てるに決まっている。
また、香炉など載せる卓を納品に行った際に、注文主が「
その卓の上でトントン踏んで見せた。という話も聞いた。
蒔絵がしてあったのどろうか。塗りだけのものもあれば、
卓の上でジャンプして見せたということだが、
自分であればどうだろう。
金沢に自動車が初めて登場したとき、
何気ないときハイカラなところもあったことを忍ばせることもあっ
布に例えると麻のような祖父であった。
かつて、天皇陛下のお召し列車は漆塗り、
現在の国会議場は金沢からも多くの職人が出向き漆が塗られたとい
父は、病弱ながら蒔絵に一意専心。
仕事関係でも祖父、
そして、父が怒った姿を見たのは一度きり。
私も一度も叱られたり怒られたことはない。
木綿のような感じがするひとであった。
ひと昔前の金沢の職人さんたちの逸話は巷に尽きない。
誰もが職人に手を取らす時間を慮りつつ優しくもあり、
皆、思い出を持っている。
私が仕事をし始めた頃でも、
いつもベレー帽を被っておられた方や、
折り目の跡など微塵もない短めのズボンという同じいでたちの方も
漆のひとには一風風変わりなひとが多いのかと、
外見についてだけは いぶかりつつ父に問うと「彼には 主義がある」と返した。
その青若い自分を今はとても恥ずかく思う。
ある方から、
金沢は様々な職人で溢れていたのだろう。
皆、職分は違えど腕のいい職人に畏敬の念を持ち、憧れ、
そして外には出さないが心に敬意をもって接していた。
同業であろうが、なかろうが。籠屋であろうが、庭師であろうが。
そして親であろうと、
そのことを決して存命のうちに漏らす筈はないのだが。
謡の降る町、空から謡が聞こえるという金沢。
松の剪定が必要なお屋敷で庭師が松葉を透かしつつ謡を口づさんだ
「庭師入れるのが一番気が張るがや。」と皆そのように言う。
「お昼(昼食)へんなもん出せんし。」
庭師さんはきれいな仕事をして、
と子供心に思ったものだ。
祖父は猫の額ほどもない庭などとはけっして言えない我が家の背戸
年端もいかぬ私を連れて行ってくれた。
そして庭石と呼べぬほどの幾つかの石を購入したが、「
そのひとつは一番好きと言ったシルクハット形の石を買ってくれた
後日、
あと20年するとここの木はこうなるし、
石のひとつを私の一番好きな石にしてくれた嬉しい嬉しい記憶だが
今、この文章を書きつつ思い返すと、
その珍奇な石を庭に据えれるよう祖父と庭師さんが相談して他の石
今、解った。
そうでなければ、この小さい庭にこの珍奇な石は納まらない。
今、その帽子石の存在感のあった鍔は七分かた苔に覆われている。