中学2年。そのほとんどの時間をともに過ごした友がいる。
放課後休日問わず家を行き来していた。
遊び盛りで彼の家がどんな仕事をしているかなど全く無頓着に大き
ある日、その家の奥の部屋にいくことがあった。
どうしてそうなったかは覚えてはいないが、
彼が襖を開けたとたんに目を覆った朱壁。
金沢の商家や町家には朱壁の座敷を持つ家はあったが、
その奥の間の群青の青も垣間見えた。
いつも傍にいる友がそうした家に生を受けていたとは終ぞ思ったこ
別の話になるが、
そして、「前金は幾らほど、、、。」と尋ねられ驚いた。
親から職人にものを頼む時は3分の1ほどは前金を払うものだとい
どれくらい払えばよいのかわからないので、、。と続ける。
「いや、前金もらって作ってないし。」
私も祖父や両親から聞いてはいるし、
前金は有難い話でもあるが荷が重くもあり貰った機会はなかったが
幼馴染みの、
思えば、
友曰く、「やっぱり、いいものはいいし、
ああ、そうなのか、と同い年の言葉に金沢を気付かされる。
今でも、「すぐにお支払いします。
金沢のひとは資産を3分割すると言われていた。
無論、資産家や旦那衆でのことだが、
道具というのは、美術品だったり、
それと家宝とするものとが「お」を付けられ、お道具となり、「
色々と名品や良いもの、面白いものをお持ちのかたを「
お蔵の深いその奥には何があるのだろう。
代替わりに持ち主からも知られずに何か眠っているかもしれない。
お侍と旦那衆が金沢の文化と言われる中心を担ってきた。
百万石の前田家と家臣、町方旦那衆どちらの車輪も外せない。
何かの両輪とよく言うが、
金沢の美術館でさほど地元に縁のない洋画家の回顧展が開かれた。
その初日、会場で町内の顔見知りの4名の方と顔を合わせた。
町内町会と言っても北國街道沿いの130戸程。
開会式直後だから、それぞれ一番に見に来たということになる。
ご近所のかたの葬儀に出る。
兄や妹とも大変縁のあった方だが、
兄妹も然程とは知らなかったという。
隣の班の建具屋さんも文化に興味が深いい分かってはいたが、
蒔絵師は謡本の帳崩しを(謡曲を書いた本を分解して)
自宅前の雪すかしをしていると、
その方のお住まいは随分離れて用事でもない限りここを通ることも
何処へ と尋ねると、
この町内に小唄の師匠さんがおいでるとは知らなかった。
町歌を持つほどの町会なのだが、
今では町並み保存地区のこの街道沿いでも町家の造りの家がほとん
この辺りは鰻の寝床と呼ばれるように奥に細長い家屋が隙間なく連
道も曲がっているので、寝床も捩れたり短かったりする。
何かの拍子にある家の奥庭や中庭の立派な木や灯籠が垣間見え驚い
きっとあるだろう家は、この界隈にまだある。
金沢の街を歩くとあちこちにある。
ここら辺りは犀川の南口、職人たちが沢山居た。
今でも金箔関係は浅野川の北口。友禅川流しもある。
城下、両方の川の外側には、
下職も含め職人たちの多くは地の民だったのだろう。
戦国の世100年ほど「百姓の持ちたる国」としてあった金沢。
職人は独立独歩の気概高く、
根気もある。心根もある。
いいものにも接し自身の中に生きている。
職商人(しょくあきんど)も多かった。
注文があったからそうなのか、
金沢は地の利も手伝って本人の意識に関わらず食い道楽かも知れな
見た目も味のうち、器がなんでも良いわけではない。
その食と場にあった器で食したい。港なら時に素手でもいい。
その港でも九谷で食べたい場もある。
正月には、蒔絵のお重におせちを詰め、
婚礼には、鯛の唐蒸し腹合わせを九谷色絵大皿に盛り謡《高砂》
治部煮もあり、専用の形の治部煮椀だってある。
そして金沢のひとは着道楽とも言われる。
婚礼時持参の桐箪笥を埋める着物をご近所さんに披露されることが
当事者ならずとも皆、着物の目利きとなる。
持参の蒔絵のお重で配り物をすれば、
金沢は気付かぬうちに目利きになる街だ。
食べることも、着ることも単に鑑賞者ではいられない。
器は使う。着物は袖を通す。
娘や嫁の婚儀には着物や蒔絵のお重を持たせ、受けねばならない。
持たせる方もどうしよう。受けるほうもどう受けよう。
その価値を解らねば失礼にあたるし、
持たせる受ける、双方に目が必要だ。
全ては使うという洗礼をうける当事者にならねばならない。
今ではそういうことは無い。期待もしないし、
ただ、そういう時代を経て「いいもの」
今の金沢がある。
外からは見えない 金沢。