金沢まち・ひと会議

DISCUSSION | 火曜日 3 3月 2015

座談会/今宵のお題「工芸建築」#004

工芸の産業化のための
工芸建築だとして、
そこで工芸家が
どう関わっていくんだろう?

宮川 佐無田さん、ここまでの話を総括しながら思うことはありますか。
佐無田 「建築にも、そもそも職人的な要素があったんじゃないか」という話がありましたね。で、「職人的な要素を含んだ建築が工芸的な要素をもっているんじゃないか」と。それについては建築の世界で発展していく話に思えます。でも一方で、工芸的な世界で近代化していった工芸もあるかもしれないし、工芸のなかで発展してきたノウハウが建築のなかでどう活かせるのか、という話をしないと工芸の産業化の話につながらないのではないか。「工芸をアートとして売っていくのではなく、普段つかうものとしてどういう産業になりえるか」という答えのひとつに建築があるとして、ならば工芸側の人たちはどう関わっていくんでしょう。
秋元 それは裏返しの話じゃないかな。
宮下 われわれは建築側なのでどうしても建築の話になるけど、同じことを工芸側から見たときには同じようなことがいえると思う。
秋元 この前、京都の西陣織をやってる会社に見学に行ったんです。西陣織は斜陽なんだけど、その会社は元気だった。そこでは帯ももちろんつくってるんだけど、カーテン生地をつくったり、壁面装飾の生地もつくったり、ファッションメーカーに生地を卸していたりする。一番はじめにブレイクしたのが壁用の生地だった。欧州建築は高級な室内装飾として非常にグレードの高い生地を布張りする。その会社はそれを開発しただけ。建築家やインテリアデザイナーが発注したからその技術を職人たちが開発したのか。もしくは職人側の開発過程でドライブがかかって逆提案したのか。どっちが先かはわからないけど、そのなかで相互に発展していくことが大事なわけです。さっきの話のように、プランが最上位にあって具現化する現実もある。ただ、プランと現実が交互にやりとりをしていくケースもある。そういうときは発注側も何が出てくるかわからない。克服すべき課題もあります。西陣織は、通常はすこしの幅しかできない。でも、その会社には、ここから向こうの端まで一発でつなぎ目のないひとつの絵柄の壁紙ができる織機があるんです。これは近代じゃないとできない技術です。近代を否定しているわけではなくて、いまの技術力やコンピュータなどの機械もとりこんでやっていく。そういうなかで建築家もインテリアデザイナーも発見する。相互的な関係なのでどっちが先かはわからない。
佐無田 いまの話にて出てくる工芸は、どちらかというとアート的な工芸ではなく、工業製品的な工芸じゃないですか。
秋元 ただ、アート性がないと誰もあつかってくれない。
佐無田 いま工芸作家がつくっている作品はアート的で、建築のなかに採り入れようと思うとデコレーティブなものになると想像できる。工芸は産業化すべきだと思うけど、その場合はインテリアデザイン的な工芸のほうがよいということでしょうか?
小津 レゴブロックの1個のパーツを工芸技術でつくったら、構造にもなり建築にもなりえて空間ができる。ブロックみたいなパーツをつくって積み重ねていくと建築空間はできる。空間ができるようなレゴブロック1個をつくった工芸作家は、同時に建築家でもあるんじゃないかな。
佐無田 レゴブロック1個をつくるのは手仕事ですね。それを材料にしようと思うと工業製品になる。さっきの西陣織は近代技術を採り入れてつくっているけど、安く大量につくる時代にあっては職人的な技術には戻れない。工芸建築は一品性があるんだけど、産業として成立するためにはある程度のロット性が必要になる。アートが作り出す手仕事の部分だけでは産業にはならない。西陣織は近代技術を入れて工業製品的になる要素を組み合わせている。組み合わせるにはプロデュース力だったり、一品をつくる工芸作家とのコラボレーションが必要になる。それらが全体としてつながっていて「一品ものだがビジネスになる」というような話をしていると思ったけど、しかし工芸をつくっている人たちの姿がわたしはまだイメージできないんです。金沢21世紀美術館で紹介される作家の作品は一品ものですね。これだとある程度工業的な要素がないといけないんじゃないですか。どれくらいのものが工業的なのかは疑問だけど…。
秋元 佐無田さんがイメージしている工芸作品にはあまり実体がない。わたしがそれらしく近代的な美術の枠組みで展示しているので、鑑賞者は芸術品として工芸作品を見ている。重要なのは、コンテキストをどこに置くかで見え方やその後のアプローチが変わるということ。これからは作家や職人が戦略的に「これは作品として売ろう」「これはある種の製品としてロットをかせぐものにしよう」という、どのコンテキストを選ぶかによって全然違って見えると思う。TPO みたいなものが生まれてくると思うんです。わたしのいう「工芸のリソース化」とはそういうことです。自分の製作プロセスをはじめからそれしかないと思って枠組み化して、自分が芸術家になるために自己の人生を投影して体現していくプロセスを踏むのはゴッホかピカソまでです。そこに芸術的なリアリティーを感じたのが近代美術。現代美術はそこにリアリティーはない。もっと冷めている。
宮下 ファッションはまさにそうだと思う。ミラノやパリで何百時間もかけて手縫いしている1点ものと、それとはべつにシーズンのコレクションものは大量生産品としてのデザインが出てくる。
佐無田 しかし、それだと新しくないと思う。
宮下 たしかにそうですが、ひとつの建築になった場合に新しい回答が出てくるかもしれない。
秋元 いまはファッションも過剰になって大量生産型の生産工程になってしまっている。ファッションデザイナーは、ファッションの絵ばかり書く人や、縫い手や、マーケティングをする人など、ものすごい機能分化していますね。『ミナペルホネン』というブランドがあるんだけど、そこでは“こんなデザインをつくろう”というイメージから布からつくりあげてひとつの服に仕上げる。さらに「この服はこういうものと組み合わせるとよりミナペルホネンの世界が実現できる」と提案もしている。そして最終的なリテールのショップとして、販売空間も自分たちでつくっている。顧客管理もしっかりとしていて、ほつれたり崩れたときもお店にもっていくと直してくれる。一貫生産だけではなく最終的なお客さんとの関係も全部つくっている。これはひとつのビジネスモデルだと思う。そういうものも工芸建築のひとつの仕組みそのものになっていく。