金沢まち・ひと会議

ESSAY | 土曜日 20 12月 2014

金沢まちづくりキーマンインタビュー(1)浦淳さんpart3「これからの金沢のまちづくりはどうあるべきだと考えますか?」

NAOMI UCHIDAエッセイ

(part2からつづく)

最後は、今後のまちづくりについてどう考えるかを聞いてみました。

3.今後の金沢のまちづくりはどうあるべきだと考えますか?

ひとつは、文化に触れていきながらボトムアップでつくっていかなくてはならないということがあると思います。まちの作り手・担い手を感じてほしいです。

文化というものは定量的でないので非常に難しいが、建築をわかった人や都市をわかった人がまちづくりをやると、まちづくりのやり方は変わってくるでしょう。それは身の置き方で違ってくるけれども、これができていくと建築の幅というものが広がるし、おもしろいと思います。

古いものも新しいものも残っている金沢は、それをやるのに最適な場所だと思います。横断的なことができる、リーダー(専門家になるかもしれないが)のような人が育ってきてくれるととても面白いでしょう。

新幹線後(2014年度開通)はどう考えますか?

新幹線が来た後の金沢について、ですが、今まで新幹線がなかったから今も残っているものは絶対あるはずです。新幹線ができたとたんに、東京資本が入りまちが壊される可能性があります。そういう例はたくさんあるのです。ビルができたり、どこも同じようなものが入ってしまったり、そういうことにならないように、今から守っていきたいです。新幹線がなかったからこそ今ある資源を考え、コントロールを考えていかなくてはならないのです。

一方、新幹線のプラス面は多くの人が往来することや、セカンドオフィスを構えるなどが考えられます。セカンドオフィスは、現代はPC一つで仕事が出来る時代なので可能でしょう。また、東京ではなく金沢に住むという選択ができるということもあります。都会に住む人は朝から満員電車に乗っています。自分も都会で住んでいたとき、一度電車を降りたら乗れないというような目に遭い、朝からへとへとになっていました。会社からの帰りも大変でした。金沢に住むのは、都市に生きるのとは違う選択肢があるのではないでしょうか。金沢はごはんも美味しいし、地価が安いので。都市は都市でたくさんいいことはあるけれども、そうじゃない選択をしたい人もたくさんいるでしょうから、そういう人たちにむけた施策が必要ではないでしょうか。

政策は、例えば都会にオフィスがあるけどセカンドオフィスをこっちに持つというような.ハード的な側面がひとつあるでしょうし、もうひとつはソフト的なコミュニティとして、外から来た人たちを受け入れていく特別なまちをつくることもあるでしょう。つまり、外からの人を受け入れる寛容性とコミュニティをつくることです。極端な例で言えばアメリカのサンタフェのような、いろんな人種の人がいていろんな人が入ってくるようなまちです。金沢は地方都市のモデルになるべきなのです。

もうひとつ、国内だけではなく、海外から人がくることも増えるでしょう。成田や羽田から、金沢に来て京都に行くというルートが考えられます。外国人を呼ぶというハードとソフトをどうつくっていくかということと、視点をもう少し大きく見て、地域で言えば金沢だけではなくて能登も富山もある、高岡に行けば室堂があるし、高山にはミシュラン3つ星のレストランや世界遺産もある、福井にはカニなど美味しいものがあるし永平寺もあるし、北陸の魅力を掛けあわせて地域連携を考えたいです。

地域が(自治体として)一緒になることはないけれど、都市間競争をするのではなくもっと外を見てこの機に何かやることも考えるべきではないでしょうか。

visitors
海外からのお客さんも増えています

ESSAY | 土曜日 20 12月 2014

金沢まちづくりキーマンインタビュー(1)浦淳さんpart2「いまの金沢というまちについて感じていることはありますか?」

NAOMI UCHIDAエッセイ

(part1からつづく)

ひきつづきおうかがいしたおはなしを紹介しますが、基本的にきっかけ→いまのまちにおもうこと→将来について、という順番でお話をおうかがいしています。part2はいまの金沢というまちについて感じること、です。

2.いまの金沢というまちについて感じていることはありますか?

水が美味しいとか、自然のいろんな条件があって金沢が成り立っているということが重要なのです。奇跡的な条件、歴史と自然が重なって今の金沢のこの豊かさがあるということを大切にしないといけないのでしょう。

現代の金沢の良さですが、21世紀美術館ができてから、とても変わったと感じます。 僕が子供の頃は良かったですが、一時期「伝統」に偏りすぎて、外の力を取り込むことを忘れていた時代がありました。でも現実は、伝統は誰かがつくったものであって、誰かが伝統をつくっているわけなのです。閉塞感を打破してくれたのが21世紀美術館だといえます。

21世紀美術館はまちなかに白い楕円で、伝統的でないとダメだと言われ、当時反対の声は大きかったのです。「なんで金沢に現代アートなのか」という反対の声があったわけですが、でもそれは違うと思います。絶滅危惧種を守ることは大事ですが、保護ばかりしていると、適応能力が縮んでいくわけで、進化が必要なのです。つまり、(古くからある)希少種は大事だが、大事にし過ぎると息苦しくて新しいものが何も出てこなくなってしまうわけです。それは自然に逆らっていると思います。21世紀美術館ができるといろんな人が集まってきました。そして、もともと伝統的なもので、とてもいいものが金沢にはあるので、それと掛けあわせてなにか新しいものが生まれていかないかな、というのが今の状況だと感じます。そういったことができるのは、地方都市でも金沢くらいではないでしょうか。

21museum

金沢21世紀美術館

ESSAY | 土曜日 20 12月 2014

金沢まちづくりキーマンインタビュー(1)浦淳さんpart1「まちづくりのきっかけ」

NAOMI UCHIDAエッセイ

金沢のまちづくりのキーマンにインタビューをすることを始めました。目的は、金沢のまちづくりがどのようなひとびとによっておこなわれ、そのひとたちがどのようなことを考えているか、ということが、これからの金沢を考えるうえでヒントになると思ったからです。

まずは、NPO法人趣都金澤の理事長である浦淳さんにおうかがいしました。ここから、いろんな方におなじ質問をしながら、金沢のまちづくりキーマンをご紹介していきたいと思います。

1.まちづくりにかかわったきっかけはなんですか?

小さいとき、親戚が東京に住んでいたので、行ってはよく金沢と比較していました。東京には人が多くて、地下鉄があって駅があってそこに賑わいがあるとか、地下に商店街があったりするので、金沢で同じ事をあてはめるのは無理だけど、バスに乗りながら、金沢にも電車があればいいなあとか、そんなことをよく考えていたのです。

大学では建築史の研究室で奈良や京都のまち並みについて研究しました。その後チベット・ネパールなどのアジア諸国やトルコやギリシアなどにバックパッカーとして1人で訪れたりしました。1都市につき1週間程度滞在すると、日本の常識には存在しない、人と、村・まち・建築とのつながり方が見えてきたのです。単なる建築ではなく、人と都市・宗教・風土といった要素との関係性が面白いと思いました。

ちょうどそのころ日本では石山修武さんのように建築家がまちづくりに挑戦し始めた頃(編集注:石山修武さんは早稲田大学教授で、気仙沼のまちづくりを手がけていた)人とまちとの関わりに興味をもって見ていました。

その後就職して金沢に戻り、金沢青年会議所(JC)に入りました。まちづくりとの関係はそこからが大きくなりましたね。トップダウン型のまちづくりは高度成長期には有効ですが、今後はそんな余力もないので、ボトムアップ型で、皆で考え、皆でつくっていかなければいけない、合意形成によって物事をやらなくてはいけない時代になったと思います。なので、担い手を育てながらまちづくりをやっていかないといけないと考えました。

そこで、趣都金沢構想というものをJCでつくったのですが、それは21世紀美術館のオープンの前年(2004)で、ちょうど金沢のターニングポイントだった時期でした。このとき、まちづくりは内発的で持続可能でなくてはならないということを考えたのです。「趣都」とは、趣深いまち、オンリーワンのまちづくりという意味で、「趣都」という造語を作ったのです。これからの都市像というのは、“◯◯都市”ではなく、市民にわかりやすくあるべきだと思って、イメージしやすいスローガンを掲げました。

そこから燈涼会(http://toryoe.jp/)を始めたり、知名度や認知度を上げる意味でもNPOの法人格を取得したりしました。まちづくりの勉強会も、多様なひとたちと始めたのです。

(part2につづく)

ESSAY | 月曜日 15 12月 2014

金沢のまち変遷のよみとりかた(2)

NAOMI UCHIDAエッセイ

(1)では、ふるい地図をもちいて、昭和よりまえの金沢のまちのよみとりをお見せしました。

さて、昭和になってまちがどう変化したでしょうか・・・。

特に急激な変化がおきた、第二次世界大戦後の変化をみてみましょう。

地図を手にいれる関係上、1966年からの変化を見てみます。

08d11fc61e8740e1ca421d4f36eb922f1

※1

1966年には、地域で自律した生活が可能になるような施設がまだたくさんのこっていました。魚屋さん、豆腐屋さん、などなど・・・個人商店がなりたっていた時代ですね。伝統をかんじさせる、染め物屋さんものこっていました。

ところが、1980年代を経ると、急激に駐車場が増加します。バブルの影響だと思いますが、まちなみが歯抜けになってしまうのです。

それから、東山が観光地としてのいちづけを高めるにつれて、観光客むけの土地利用も増えていきました。

金沢のまちはうつくしいまちなみが今ものこっていますが、1980年代から90年代までの経済状況が、いまもまちなみに大きな傷をのこしているのです。こういったことはなかなか取り返しがつかないことですし、みんなで慎重にまちのありかたを考えていかなければ、経済原理にしたがってまちがつくられていってしまうのです。

もちろん単純に古いものを残せばいいということでもありませんし、個別の事情もあるのですが、たいせつなものを残すための助けかた、をもつことが金沢にほんものを残していくことにつながるでしょう。

※1 内田奈芳美「地方都市中心市街地内の「狭間の地域」の将来像」日本建築学会学術講演梗概集F-1 pp. 73-76(2010)

ESSAY | 水曜日 10 12月 2014

金沢のまち変遷のよみとりかた(1)

NAOMI UCHIDAエッセイ

当たり前の話ですが、金沢のまちは変化し続けています。

まちの変遷をどのように読み取るか?

そういったことを大学では研究しています。

金沢はまちの中で普通に歴史が重なって併存しています。だからこそ読み取りが面白いのです。特に面白いのは「狭間」にある地域。つまり、超・現代的でもなく、歴史的保全地区でもないところです。そういったところに、特に金沢らしさが見えます。

事例として歴史ある地域ですが、尾張町と東山に挟まれた「狭間」の地域である「下新町」を取り上げてみましょう。ここは旧町名復活の制度で、まちの名前を古いものに戻した地域です。

ここではよみとりかたの例として、地図をなぞってみます。

まず江戸時代の地図のよみとりです。

金沢では江戸時代のまちの地図が容易に手に入ります。玉川図書館などがおすすめです。

では図書館で手に入れた江戸時代の地図をよみとってみましょう。

dfb7a60b9ecbe116c19c808c3f469c8f

※1

これは延宝年間(1673年〜1681年)の地図を分析した図です。現在の久保市乙剣宮のある周辺の場所ですが、この当時は神社は卯辰山に移転しており、お屋敷用の敷地となっています。
また、水のある場所は人が集まるので市場ができ、人が集まる場所となったのです。

この「市」が常市だったのか、たまに開かれる市だったのかはわかりません。でも、とにかく市場というのは交易の場として、都市の基礎をいつだってつくるしかけなのです。

そして次に手に入った地図は明治38年の地図でした。

さて、どう変化したでしょうか。よみとってみましょう。

2e3b0354323ebdc59db6f30c5bd0284a

※1

卯辰山に移動していた神社がもとの場所に戻ってきましたね。

他にも大きな変化があったのですが、お気づきでしょうか?

神社の前の道が表通りにつながったのですね。それまでは裏通りは独立して静かな場所だった(室生犀星もそういっています)のですが、この時期は一気ににぎやかな場所となりました。芝居小屋、寄席、ビリヤード場など、今では想像がつかないようなお店がならんでいました。一方、この時期に都市の基礎となる機能である市場は 近江町に移っていきました。

次回は昭和の変化についてお話しします。

※1 内田奈芳美「地方都市中心市街地内の「狭間の地域」の将来像」日本建築学会学術講演梗概集F-1 pp. 73-76(2010)

ESSAY | 金曜日 5 12月 2014

外部者から見える金沢の景観(2)

NAOMI UCHIDAエッセイ

さて、分析方法を使っていろんな国からの参加者の写真を分析しました。ここからは参加者のみなさんの写真をお借りします。

まず特徴的だった韓国からの参加者Aさんの写真について。(以下の写真はAさんが撮影したものです)

初日の代表的な写真です。

95692ca781895810f07b6e7147e6207a2
ディティールに着目したすてきな写真ですね。

さて最終日直前の写真はどうなったでしょうか・・・

78f3f10d216db427ee7e01c94e6a44501

ずいぶん視点が変化しています。

Aさんは最初とても小さな細工に着目して「金沢らしいもの」「日本らしいもの」を対象に写真を撮っていたのです。(いわゆる「小さな景観」ですね)ところが数日経ち、まちについていろいろと分かってくると、空洞化しつつあるまちなみが気になってきたようです。

これは他の外国人参加者も同じような感想を持っていました。

これから外部からいろんなお客様を金沢に迎えるとき、長期間滞在していかれる方々は同じような点が気になるかもしれません。

まちづくりとして、考えていかなくてはいけないポイントのひとつです。

ESSAY | 月曜日 1 12月 2014

外部者から見える金沢の景観(1)

NAOMI UCHIDAエッセイ

外部からいらっしゃった方から、金沢の景観はどのように見えるでしょうか?

「金沢の景観」というと、町家が並ぶまちなみのようなイメージがあるかもしれませんが、実はもう少し多様で、実はいろんな問題をかかえています。

「金沢の景観の見え方」を科学的に解明してみました。

2011年夏に金沢で各国学生が参加して、金沢という城下町のまちのデザインを考える国際ワークショップを行い
(詳しくは http://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/wwwr/iwjk/index.html をご覧ください)

そこで参加者に尾張町〜新町〜東山地域の点検まちあるきをしながら写真を撮ってもらいました。写真は自由に関心のあるものを撮ってもらいました。その写真を下の図のような方法で分析しました。

53f1de586055459675eccdec67c956ae

(金沢工業大学2011年内田研卒業論文から引用)

写真の中心に写っているもの、そして写真の中で大部分を面積的に占めているものを分析することで、まちのどのような要素に着目して写真を撮っていたかということを、客観的に明らかにしようとしたのです。5ヶ国から来た、計35名の参加学生が10日のワークショップの間に撮った写真を全て分析しました。(分析は卒業論文として金沢工業大学4年生(当時)が中心となっておこなってくれました。)

ここから何回かに分けて、どのような特徴があったかを紹介したいと思います。