金沢まち・ひと会議

ESSAY | 水曜日 30 3月 2016

きょうの現代美術 第七回

YUJI AKIMOTOエッセイ

「きょうの現代美術」
ウォルターデマリアの「ライトニングフィールド」の背景を探りたい。この作品は、ランドアート、環境芸術という括りに入る。同じカテゴリーに入る作品でも、作家の資質によって大きく作品の在り方は異なるが、この手の作品の多くは、身体感覚に重きを置いて制作されている。

作家の身体感覚である。それが体一つで作り出すという感覚の場合もあれば、大掛かりな土木作業を思わせるタイプもある。例えば前者は、リチャードロング、アンディゴールドワージィー。後者は、マイケルハイザー、ロバートスミッソンだ。

ここまできて、すでに気づいているかもしれないが、身体規模感覚の捉え方や哲学の違いは、作家個人というよりも、その作家の属する文化、文明における自然観が影響しているようだ。ロングは英国人だが、散歩をする、歩くということがベースになっており、自然に対して人為的に変更を与えることを抑える傾向にある。一方、ハイザーはアメリカ人であり、まるでな土木工事のように大掛かりに自然に働きかけるという具合に、2つを比べると力の表現と自然観がまるで異なっている。裏を返せば人間観(身体的規模や能力の感覚)の違いである。

冒頭でも書いたが、この一見2つの異なるタイプのランドアートは、その成り立ちにおいて根本は同じである。それはどちらも身体感覚に準じた表現であり、スケールや哲学の違いはあっても、一人の人間という視点によって成立しているのである。だから一見複雑に見える作品だが、実は、大地あるいは自然に向き合う人間という構図で作品を理解すれば、案外わかりやすい。つまり《自然vs人為》という構造で作品化されている。多くのランドアート、環境芸術は、この《自然vs人為》という構図で理解でき、その対応関係の文化的異なりのバリエーションとして理解できる。あるいは自然をどのように考えるか、という自然観の違いと言ってもいい。

ところが、ウォルターデマリアはこのような構図からでは理解できない。つまり作品の構造が人間の行動や人間が自然をどのように道徳的、哲学的に見るか、いう視点から接近しても理解できない。《自然vs人為》という構図ではないのだ。(続く)

ESSAY | 水曜日 30 3月 2016

きょうの現代美術 第六回

YUJI AKIMOTOエッセイ

「きょうの現代美術」は、何回目になるのかな? またデマリア。彼を世界的に有名にした作品が「ライトニングフィールド(カミナリの高原)」。これはいくつかの点で、それまでの美術と異なっていた。

まず、美術館に展示されないこと。また移動できないこと。自然の中にあること。またスケールが大きいこと。そしてこれらの特徴を持った結果、どこからどこまでが作品かがわからなくなってしまったこと。つまりこれまでの絵画や彫刻のように、ひとつの物として視界に収まるわけでも、作品として完結するわけでもないものが生まれた。そしてそれが、ただ自然の中に広がっているという光景を作り出してしまった。

今われわれは、こういう作品をインスタレーションと呼んだり、サイトスペシフィックアート(その場所に根ざしたアート)と呼んだりする。或いは、環境芸術、アースワーク、ランドアートという呼び名を聞いたことのある人もいるだろう。デマリアの始めた仕事(ほぼ同時にマイケルハイザー、ロバートスミッソンが60年後半から自然の中で作品制作。その後、クリスト、タレルなどが続く)が、これらの新しい美術動向のほぼ始まりである。その頂点であり、記念碑的作品が1977年の「ライトニングフィールド」ということになる。これ以降、作品は美術史から徐々に自由となり、場所、環境や歴史と関わり、様々な文脈(例えば社会学、人類学、文明史など)と結びつく。

環境芸術や自然を使ったアートを紹介するときに必ず登場する「ライトニングフィールド」だが、果たしてどれだけの人が、実際にそれを見たかは疑わしい(本当は作品スケールから『体験』と言った方がいいが)。なぜなら、人がたやすくいけない遠隔地にあり、かつそこに行くまでがとても面倒だからだ。UFOが出ると言った噂が登ってもおかしくないほどの人里離れた場所にある。ニューメキシコ州の都市アルバカーキからインターステイツというアメリカ版の高速道路を車で数時間ほど、ひた走り、それを降り、また下道を走る。数時間、人も車もほとんど見ることのない。砂漠地帯に張り付いたような舗装道路を走る。道の脇に家がまばらに現れる。町と考えていいのか、どうなのか迷っているうちに、ほとんどの人が通り過ぎるこの場所が終着地クマドーだ。
「ライトニングフィールド」に行くには、さらにここから奥に行かねばならない。まずはここで乗ってきた車を捨て、ライトニングフィールドを管理する地元のカウボーイの車(もちろんゴッツイ四輪駆動車)に乗って、今度は舗装のない凸凹の道を行く。地元カウボーイの運転は意外に紳士的だが、それでも体は大きく上下する。行けども行けども目的地に着かない。
そもそも視界を遮る物のない場所だが、さらにその視界が開けてくると目的地は近い。視界が360度広がる平原である。影すらできない平らな土地にポツンと頼りない木造の小屋が蹲るように存在する。地面からの突起物はこの小屋と遠くの井戸だけである。デマリアは、作品設置の条件といて可能な限り自然地形で平らな場所を探したにちがいない。
小屋は一泊するための場所だ。カウボーイは私たちを下ろすと小屋での過ごし方と緊急時の連絡の取り方(一つ、黒電話があるだけ)を伝えて、去って行く。滞在者だけ残る。

少し離れたところに給水施設。こういうものがあるととりあえずは、すこしほっとする。それぐらい人気のない場所なのだ。周りには丈の低い半ば干からびたような草がただ広がるだけである。その先にはデマリアがこれ以上の精度は出せないというほど精巧に作ったステンレス製の柱が立っている。これだけがとっても異質だ。広大な砂漠に縦横の一辺が1キロと1マイルの四角形が想定され、400本の柱が規則正しく立っている。
こんな場所に身を置いていると「私は今世界の果てにいる」のではないかとぼんやりと思うのだ。

「ライトニングフィールド」はそんなところにある。小屋は最大でも十人に満たない人間しか泊まれず、そこで一夜を過ごして、ライトニングフィールドを見る。陽の高いうちはほとんど存在に気がつかないステンレス柱が、日没と日の出の時間だけくっきりとした陰影を持って現れる。光が横から当たるためだ。

厳しい自然環境の中にあるため、ここに入れる季節は限られている。冬場の状態がきびしいときは、人は近付けないから、多くても年間千人にも満たない人しかここを訪れることはできないし、実物の作品を見ることもできない。それでも作品は有名である。現代美術をかじっている人間であればどんなものか、皆、知っている。ランドアートの代名詞と化したこの作品は、20世紀後半を飾る名作として美術書に頻繁に登場してきたからだ。画一したイメージはその過程で生まれた。使われる写真はいつもきまって、カミナリが落ちる写真である。ステンレス製の柱に無慈悲にもカミナリが落ちているというものだ。それが現実の落雷とは別に人々の心に映像化し、イメージとしてこびりついてきた。イメージの独り歩きという現象も、メディアの発達した今日の出来事だ(そしてそこで記号的に意味が語られる)。だが、それとは別に生な体験が、訪問者の中で形成されて行ってもいるのだ。果たしてポップアートさながらに一人歩きし、増幅する記号的イメージのライトニングフィールドか、それとも、ここの訪問者のうちに残る経験としてのライトニングフィールドか、どちらがデマリアの伝えたかったことなのだろうか? くっきりと意味を語る映像イメージに反して、個人に残る体験は、あまりにも頼りなく、モワモワしたものなのである。

ESSAY | 水曜日 30 3月 2016

きょうの現代美術 第五回

YUJI AKIMOTOエッセイ

しつこくデマリアの第5弾かな?
今日は、「ハイエナジーバー」についてです。この作品も1960年代半ばの初期の作品です。これはタイトルに素直にデマリアのものの考え方が出てます。つまりこのステンレスバーは、エネルギーを持ってますよ、ということだ。デマリアは、
ものには質量があり、重力があると考えていて、それを作品化している。そういう意味では「ハイエナジーバー」も「ボールドロップ」も同じテーマである。さて、そこで終わる作品ならば、「ボールドロップ」の展開版ぐらいの話で終わる。ところが「ハイエナジーバー」の主要なテーマはそこだけではない。むしろ作品の市場性と芸術の問題に神経が向いている。まずこの作品の販売価格は、1万ドルである。価格の高低が問題ではない、価格が変わらないということがポイントなのだ。転売時も変わらない。何度売っても同じなのだ。つまりこの作品の市場性は変わらない。いやその言い方は正確ではないなあ。「ハイエナジーバー」だけ価格が変化しない。芸術性と市場評価が連動していないのだ。デマリアはもうひとつ仕掛けをしていて、この作品は、何本でも制作できる。実際に何本か存在する。
つまりこれは、芸術の市場性とオリジナルに関する作品だ。
デマリアがこの作品を作って、半世紀になる。デマリアも数年前に亡くなった。現代美術をめぐる環境も異なっている。近年、他の作品とに混ざってハイエナジーバーもオークションに出てくる。そこでの落札結果は、デマリア決めた価格などお構いなしにすごい数字で取引される。作品には証明書がつく。そこには、購入者が転売する場合の条件も書かれており、決して購入時の値段一万ドルを越えたり、下回ったりしてはいけないというルールだ。しかしそんな条件を守る人はいない。みんなが現代美術の市場性とパワーに酔いしれている。

ESSAY | 水曜日 30 3月 2016

きょうの現代美術 第四回

YUJI AKIMOTOエッセイ

「今日の現代美術」というタイトルでエッセイを書こうと思っていましたが、タイトルをよく考えると「いま」という形容がダブっているんだよね。それに本人は「今日の」を「きょうの」と読んだつもりが、「こんにちの」とも読めるということに気付いて、この二つではだいぶ伝わる雰囲気が違うので(「こんにち」は堅い)、「きょうの現代美術」と開くことにしました。「きょうの料理」とか、そんなフランクさですね。
しつこいが今日もデマリアの球体作品です。追記ですね。木製の「ボールドロップ」という作品が1961年の製作で、ニュートンのリンゴの話よろしく、重力について触れた作品です。重い球を上から落とすと「ゴン!」と床にぶつかる、という身も蓋もない作品。まさに落下を知ることになる。それが40数年後に直島にあるような巨大な球体のインスタレーションになるという話をしました。その間には、水平に移動する球体作品があり、円などの幾何形態から、十字架などのシンボリックな形まであり、重力、引力といったエネルギーを持つものが、ある形を与えれられて、それをなぞるように移動する、そして、それが歴史や人間の作り出した理念といったものに触れているのではないか、という話を前に書きました。実は書きながら、垂直の重力をテーマにする作品から水平にそれが展開し、幾何形態に沿って移動する作品までには、コンセプト的な開きがある、アイデアの飛躍があるなあと思っていたのですが、やはり間を埋める作品がありました。単に球体が水平に移動する作品で、かつ、垂直型の作品のときに重要な要素であった落下音「ゴン!(これは重力を感じさせるという意味で重要)」を引き継いだものなのですよ。 私はこの作品を実見していないので、想像するしかないのですが、金属棒に溝が掘ってあり(トイのように)、そこに球が入っていて、自由に動くようになっている。ただ自由といっても、直線に沿ってなので、それほど形態としては目を引くところがあるわけではないのですが、興味深いのは、集音器や音の増幅装置が付いており、球が移動し、あるいは壁にぶつかった時の衝撃音を何らかの形で加工して音として出していたのではないかと思わせるのです。つまり音を作品の一部にしていたということです。これはとても興味深いポイントで、音について、実は直島の「タイム、タイムレス、ノータイム」という作品でも使用されているのです。ときおり「ゴン!」という音が室内に響きます。デマリアは、61年製の「ドロップボール」という作品から単に球体という形態だけを発展させ、作品として展開しただけではなく、初期から興味を持つ、そして自分の芸術活動の始まりでもある音楽(音)を継続してずっと問題にしていたことになります。前から感じていましたが、デマリアは、音や時間、環境というものに対して敏感に反応してきました。造形的に非常にきっちりとした形態を作り出す作家なので、空間的な美しさに配慮した視覚重視の造形作家のように見えてしまいますが、実は極めてコンセプチュアルであるばかりか、ミュージック、ハプニングなど、こういった時間的、非形態的な要素に強く反応する作家でもあるのです。その証拠に、実は彼は、当初美術作家を志していたというよりも、音楽家を目指していました。小学校時代から小太鼓をやっていましたし、パーカッション、ドラマーとして、ルーリードらとともにベルベットアンダーグラウンドの前身の実験的なロックバント「ドラッズ」にも所属していました。当時のデマリアの活動を知ることができる貴重なCDがあります。そこでは彼はコオロギとドラムセッションをし、海岸に打ち寄せる波とドラムセッションしていました。ある意味では、視覚芸術家としてのデマリア以上に音楽家としての彼のほうが年期が入っていると言えるほどなのです。というか、デマリアにとっては、音も視覚も分けられるものではないのかもしれません。さて話を進めて、この作品を制作していたこの頃、つまり1965、6年頃ですが、もうひとつ興味深い作品を作っています。「ハイエナジーバー(高エネルギー柱)」という作品です。これは単なるステンレススチールのバーに見える作品です。これを立てればまさに2001年宇宙の旅のモノリスです。文字が書き込まれていて、何本か制作しています。これもまた別の意味で興味深い作品ですが、今日は、直線に溝が切ってあり、そこに球がはめ込まれている作品との形態的な相似だけに触れてこの話を終わりにします。「ハイエナジーバー」にはまた別のストーリーがあります。それは芸術性についてオリジナルと価格から考えさせる作品です。これついてはまた次の機会に。

ESSAY | 水曜日 30 3月 2016

きょうの現代美術 第三回

YUJI AKIMOTOエッセイ

「今日の現代美術3」という名前をつけました。前の二回もカウントして3回目の投稿。もう勝手にシリーズ化しよう! デマリアの球体好きの別バージョンです。こちらは球体が動くというだけでなく、それが支持する形態が意味を持ちます。例えば丸三角四角があり、また十数面体というものもあります。それに単なる幾何形態ではなく限りなく象徴的な意味を帯びた形もあります。例えばクロス十字架。これは明らかにキリスト教との関連を示すものですし、それに卍ハーケンクロイツなども使用しています。今ではナチスドイツの忌まわしい歴史を象徴する記号になってしまいましたが、これらは歴史的にも古く、世界各地に存在する重要な記号です。球体は固定されていないから、形や記号をトレースするように動くだろうと想像させます。実際に観客によって動かすことはできないから想像になりますが、それを裏付けるように球体が動いた跡が見て取れる。初期の木製箱型作品では垂直にストンと落ちる姿によって、重力を表していた球体ですが、今ではある記号や形をトレースしながら動いていき、その背後の意味や歴史を掘り起こしていく、解釈やイメージを形成する力を表しているものに見えます。さてもう1つ、デマリアが単に幾何学を用いているわけではないということがよくわかる参照作品を紹介します。日本の禅僧である仙厓の丸三角四角の作品です。これを見ると「ああ、なんだ!デマリアはこれを参照したのか」と納得できます。デマリアは単なる抽象彫刻家ではありません。非常にコンセプチュアルに作品を制作し、何重にも意味を重ねています。ですから仙厓の作品もただの形態的なアイデアと参考にしたのではなくて、はっきりと思想的な背景を理解して引用しています。そこが面白いところですね。抽象幾何形態だけでなく、象徴的な意味をふんだんに持つものを用いることで、おおっ!重力が歴史や宗教的な概念や人間が作り出す想念にも関わってくるのかと空想させる魅力があります。つまり力が世界を動かしているのか、ということです。ここまでくるとデマリアの想像力が飛び跳ねている感じですね!

ESSAY | 水曜日 30 3月 2016

きょうの現代美術 第二回

YUJI AKIMOTOエッセイ

前回、現代美術家のウォルターデマリアの作品を紹介したら、いいリアクションだったので、調子に乗って作品紹介。デマリアの球体への興味の話の続きです。前回、直島の作品から急に球体が出てきたと思ったが、実はそうではなく、三角四角などの他の直線的な多角形と同様によく使う形だったという話。デマリアの重要なモチーフでした。今日はその証拠となる初期の作品を紹介します。身長ほどある木製の箱に縦にちょうど手が入るほどの穴が二つ空いています。備え付けの球があり、穴に入れることができるようになってます。上から球を入れるとそのままなんの抵抗もなく、下までゴン!と落ちます。まさに間髪入れず「ゴン!」です。すごい音がして「はっ!?」として、気まずい感じになります。木製の箱に対して、球体も硬い素材ので、それで結構な衝撃なります。この作品は、この気まずい行為、つまり、「ゴン!」と石の球を落とす行為が鑑賞体験になります。さてこれによってデマリアは何を伝えようとしたのでしょうか? 「ゴン!」という強い衝撃を感じて気まずい気分になるというところの前半部分だけが大事なので、そこを考えてみましょう。後半の「気まずい気分」は、私が勝手に感じているだけで重要でもなんでもありません。あくまでポイントは前半の「ゴン!」という衝撃音から想像できることです。重い物が落ちてきたなあ、あるいは私が驚いたように想像以上に「重い」物が落ちてきたという印象を与えたいのでしょう。本人は語っていないのですが、想像するに、たぶん、「重さ」の表現をしたかったのではないかと思います。当たり前ですが、物はどんなものでも重さがあります。重さはどんなものでも例外なく存在します。そしてそれは、どこまでも広げることができる、モノを司る法則でもあります。つまりものである以上失うことのない「重力」が存在するのです。木製の箱に不釣り合いな重い球。四角く空いた窓から石を入れれば、瞬時に下の窓まで落ちます。その速度は「こんなに早いのか!」と思うほどの瞬間です。「ゴン‼︎」です。デマリアといえば、何か動かない普遍的なコンセプトのイメージがありますが、むしろこのように動きの中に見るべきものがあるのかもしれません。例えば、代表作のライトニングフィールドも同様です。突然、雷が参入し、落ちる。音への興味は、彼のキャリアの始まりが音楽家だったということからもわかります。この作品は、デマリアが気に入っていたようで、スタジオにずっと置いていました。私もスタジオで「ゴン」をやってます。たぶん作品制作年は1960年代のものです。かなり早い時期のコンセプチュアルアートですね。モノリス型の箱中央あたりに四角の中に丸い玉が見えるのがわかりますか?あれを持って上の穴から落とします。「ゴン!」さてこの球は、40年後には2メートルを超える不動の球体として直島に登場します。

ESSAY | 水曜日 23 3月 2016

きょうの現代美術 第一回

YUJI AKIMOTOエッセイ

今日は、自分の好きな作家のまだ見たことのない作品をあげよう。ウォルター・デ・マリアの作品。ドイツにあります。直島の作品の姉妹作品。こちらの方がちょっと大きい。直島は濃いグレーですが、こちらはちょっと赤い。デ・マリアが生きている時に産地を聞いたが、忘れてしまった。作品の順番は直島が先です。直島当時は、いつも直線的な幾何形態を使うデ・マリアにしては、球を使ったのが唐突に思えた。ちょっと作品としてどうなのだろう?と不安になったりして。

しかし
全然そんなことはないね。後期の傑作というところだね。最近になって当時の印象は間違ってたなと思っていて、これまでの作品を振り返ると初期から球体を使ったものは多く、むしろ頻繁に使用していると感じる。ただあの時そう思えなかったのは、私の不注意もあるけど、デ・マリアはあれほど全面に球体を出したことがなかったらなんだと思う。その後この球体での展開は晩年の主要なシリーズになった。当時、スタジオには球体がたくさんあった。そういえば、その変電所跡のスタジオも売却されてた。
ニューヨークのマンハッタンだったので、すごい値段だった。