金沢まち・ひと会議

| 水曜日 17 2月 2016

金沢・ひと その2

中学2年。そのほとんどの時間をともに過ごした友がいる。
放課後休日問わず家を行き来していた。
遊び盛りで彼の家がどんな仕事をしているかなど全く無頓着に大きい家の彼の部屋へ直行して時を過ごした。
ある日、その家の奥の部屋にいくことがあった。
どうしてそうなったかは覚えてはいないが、薄暗い割と広い廊下を進んだ大きな襖の部屋だったように思う。
彼が襖を開けたとたんに目を覆った朱壁。
金沢の商家や町家には朱壁の座敷を持つ家はあったが、これほどの朱壁の部屋は見たことがなかった。
その奥の間の群青の青も垣間見えた。群青壁のそんな大座敷があることに驚いた。
いつも傍にいる友がそうした家に生を受けていたとは終ぞ思ったことが無かった。

別の話になるが、ある同級生の親友からお茶を嗜む訳でもないのに棗の注文があった
そして、「前金は幾らほど、、、。」と尋ねられ驚いた。
親から職人にものを頼む時は3分の1ほどは前金を払うものだということは以前から聞いているが、
どれくらい払えばよいのかわからないので、、。と続ける。

「いや、前金もらって作ってないし。」と答えるとそれで頼んでよいのかと言う。

私も祖父や両親から聞いてはいるし、そうしている姿も見ているが、世代も変わり時代も変っている。
前金は有難い話でもあるが荷が重くもあり貰った機会はなかったが
幼馴染みの、それも仕事や趣味が格別その向きでもない友の言葉に驚いた。

思えば、昔から彼の家の玄関には金沢の誰もが知る高名な漆芸家の衝立がある。
友曰く、「やっぱり、いいものはいいし、何かいいもの家に欲しいし。何かないとね。両親も好きやし。」
ああ、そうなのか、と同い年の言葉に金沢を気付かされる。
今でも、「すぐにお支払いします。親からもそう聞かされていますし。」と仰る方も少なくはない。

金沢のひとは資産を3分割すると言われていた。

無論、資産家や旦那衆でのことだが、不動産と動産と道具とに三等分する知恵。
道具というのは、美術品だったり、茶の湯や宴席の道具であったりだが、資産としての価値を持ち続け得るものであり、
それと家宝とするものとが「お」を付けられ、お道具となり、「お蔵」に入るものである。
色々と名品や良いもの、面白いものをお持ちのかたを「お蔵が深い」とも言ったりする。
お蔵の深いその奥には何があるのだろう。
代替わりに持ち主からも知られずに何か眠っているかもしれない。

お侍と旦那衆が金沢の文化と言われる中心を担ってきた。
百万石の前田家と家臣、町方旦那衆どちらの車輪も外せない。

何かの両輪とよく言うが、金沢にはまだ他にも車輪があるように思う。

金沢の美術館でさほど地元に縁のない洋画家の回顧展が開かれた。
その初日、会場で町内の顔見知りの4名の方と顔を合わせた。
町内町会と言っても北國街道沿いの130戸程。
開会式直後だから、それぞれ一番に見に来たということになる。

ご近所のかたの葬儀に出る。自動車製造会社の定年を過ぎ古希もだいぶ超えられてれた。
兄や妹とも大変縁のあった方だが、通夜で謡が大変好きでお上手であられたと初めて知った。
兄妹も然程とは知らなかったという。

隣の班の建具屋さんも文化に興味が深いい分かってはいたが、謡を教えておいでるとは知らなかった。

蒔絵師は謡本の帳崩しを(謡曲を書いた本を分解して)金蒔絵の研ぎ汁を拭うのに使っている。

 
3−1謡本

 
自宅前の雪すかしをしていると、不意に思い掛けない知人が声をかけてくる。
その方のお住まいは随分離れて用事でもない限りここを通ることもないはずだ。
何処へ と尋ねると、この少し先の小唄の師匠のところへ通っているという。
この町内に小唄の師匠さんがおいでるとは知らなかった。
町歌を持つほどの町会なのだが、小唄の師匠さんのことは知らぬ方がほとんどだろう。

今では町並み保存地区のこの街道沿いでも町家の造りの家がほとんど姿を消した。
この辺りは鰻の寝床と呼ばれるように奥に細長い家屋が隙間なく連なる。
道も曲がっているので、寝床も捩れたり短かったりする。
何かの拍子にある家の奥庭や中庭の立派な木や灯籠が垣間見え驚いたこともある。

きっとあるだろう家は、この界隈にまだある。
金沢の街を歩くとあちこちにある。

ここら辺りは犀川の南口、職人たちが沢山居た。浅野川の北口も塗師が多かった。
今でも金箔関係は浅野川の北口。友禅川流しもある。
城下、両方の川の外側には、前田家の治める前から住む地の民の多い所。
下職も含め職人たちの多くは地の民だったのだろう。

戦国の世100年ほど「百姓の持ちたる国」としてあった金沢。

職人は独立独歩の気概高く、同業他者の生業より独自の制作に打ち込む人も多かった。
根気もある。心根もある。
いいものにも接し自身の中に生きている。
職商人(しょくあきんど)も多かった。自分で作って自分で売る人だ。
注文があったからそうなのか、作っても売れないからそうなのかはニワトリと卵。

金沢は地の利も手伝って本人の意識に関わらず食い道楽かも知れない。

見た目も味のうち、器がなんでも良いわけではない。
その食と場にあった器で食したい。港なら時に素手でもいい。
その港でも九谷で食べたい場もある。

正月には、蒔絵のお重におせちを詰め、
婚礼には、鯛の唐蒸し腹合わせを九谷色絵大皿に盛り謡《高砂》の一節がある。

治部煮もあり、専用の形の治部煮椀だってある。

 
3−2九谷 鉢

 
そして金沢のひとは着道楽とも言われる。
婚礼時持参の桐箪笥を埋める着物をご近所さんに披露されることが通例となれば、
当事者ならずとも皆、着物の目利きとなる。
持参の蒔絵のお重で配り物をすれば、受けるほうも塗り蒔絵の目利きとなろうというものだ。

金沢は気付かぬうちに目利きになる街だ。

食べることも、着ることも単に鑑賞者ではいられない。

器は使う。着物は袖を通す。
娘や嫁の婚儀には着物や蒔絵のお重を持たせ、受けねばならない。
持たせる方もどうしよう。受けるほうもどう受けよう。
その価値を解らねば失礼にあたるし、此方が誂える着物などもあるだろう。

持たせる受ける、双方に目が必要だ。
全ては使うという洗礼をうける当事者にならねばならない。

今ではそういうことは無い。期待もしないし、その気の重さからも解放されてすっきりした。
ただ、そういう時代を経て「いいもの」という美意識の洗練と共有がなされて来ての
今の金沢がある。

外からは見えない 金沢。