金沢まち・ひと会議

| 水曜日 30 3月 2016

きょうの現代美術 第六回

「きょうの現代美術」は、何回目になるのかな? またデマリア。彼を世界的に有名にした作品が「ライトニングフィールド(カミナリの高原)」。これはいくつかの点で、それまでの美術と異なっていた。

まず、美術館に展示されないこと。また移動できないこと。自然の中にあること。またスケールが大きいこと。そしてこれらの特徴を持った結果、どこからどこまでが作品かがわからなくなってしまったこと。つまりこれまでの絵画や彫刻のように、ひとつの物として視界に収まるわけでも、作品として完結するわけでもないものが生まれた。そしてそれが、ただ自然の中に広がっているという光景を作り出してしまった。

今われわれは、こういう作品をインスタレーションと呼んだり、サイトスペシフィックアート(その場所に根ざしたアート)と呼んだりする。或いは、環境芸術、アースワーク、ランドアートという呼び名を聞いたことのある人もいるだろう。デマリアの始めた仕事(ほぼ同時にマイケルハイザー、ロバートスミッソンが60年後半から自然の中で作品制作。その後、クリスト、タレルなどが続く)が、これらの新しい美術動向のほぼ始まりである。その頂点であり、記念碑的作品が1977年の「ライトニングフィールド」ということになる。これ以降、作品は美術史から徐々に自由となり、場所、環境や歴史と関わり、様々な文脈(例えば社会学、人類学、文明史など)と結びつく。

環境芸術や自然を使ったアートを紹介するときに必ず登場する「ライトニングフィールド」だが、果たしてどれだけの人が、実際にそれを見たかは疑わしい(本当は作品スケールから『体験』と言った方がいいが)。なぜなら、人がたやすくいけない遠隔地にあり、かつそこに行くまでがとても面倒だからだ。UFOが出ると言った噂が登ってもおかしくないほどの人里離れた場所にある。ニューメキシコ州の都市アルバカーキからインターステイツというアメリカ版の高速道路を車で数時間ほど、ひた走り、それを降り、また下道を走る。数時間、人も車もほとんど見ることのない。砂漠地帯に張り付いたような舗装道路を走る。道の脇に家がまばらに現れる。町と考えていいのか、どうなのか迷っているうちに、ほとんどの人が通り過ぎるこの場所が終着地クマドーだ。
「ライトニングフィールド」に行くには、さらにここから奥に行かねばならない。まずはここで乗ってきた車を捨て、ライトニングフィールドを管理する地元のカウボーイの車(もちろんゴッツイ四輪駆動車)に乗って、今度は舗装のない凸凹の道を行く。地元カウボーイの運転は意外に紳士的だが、それでも体は大きく上下する。行けども行けども目的地に着かない。
そもそも視界を遮る物のない場所だが、さらにその視界が開けてくると目的地は近い。視界が360度広がる平原である。影すらできない平らな土地にポツンと頼りない木造の小屋が蹲るように存在する。地面からの突起物はこの小屋と遠くの井戸だけである。デマリアは、作品設置の条件といて可能な限り自然地形で平らな場所を探したにちがいない。
小屋は一泊するための場所だ。カウボーイは私たちを下ろすと小屋での過ごし方と緊急時の連絡の取り方(一つ、黒電話があるだけ)を伝えて、去って行く。滞在者だけ残る。

少し離れたところに給水施設。こういうものがあるととりあえずは、すこしほっとする。それぐらい人気のない場所なのだ。周りには丈の低い半ば干からびたような草がただ広がるだけである。その先にはデマリアがこれ以上の精度は出せないというほど精巧に作ったステンレス製の柱が立っている。これだけがとっても異質だ。広大な砂漠に縦横の一辺が1キロと1マイルの四角形が想定され、400本の柱が規則正しく立っている。
こんな場所に身を置いていると「私は今世界の果てにいる」のではないかとぼんやりと思うのだ。

「ライトニングフィールド」はそんなところにある。小屋は最大でも十人に満たない人間しか泊まれず、そこで一夜を過ごして、ライトニングフィールドを見る。陽の高いうちはほとんど存在に気がつかないステンレス柱が、日没と日の出の時間だけくっきりとした陰影を持って現れる。光が横から当たるためだ。

厳しい自然環境の中にあるため、ここに入れる季節は限られている。冬場の状態がきびしいときは、人は近付けないから、多くても年間千人にも満たない人しかここを訪れることはできないし、実物の作品を見ることもできない。それでも作品は有名である。現代美術をかじっている人間であればどんなものか、皆、知っている。ランドアートの代名詞と化したこの作品は、20世紀後半を飾る名作として美術書に頻繁に登場してきたからだ。画一したイメージはその過程で生まれた。使われる写真はいつもきまって、カミナリが落ちる写真である。ステンレス製の柱に無慈悲にもカミナリが落ちているというものだ。それが現実の落雷とは別に人々の心に映像化し、イメージとしてこびりついてきた。イメージの独り歩きという現象も、メディアの発達した今日の出来事だ(そしてそこで記号的に意味が語られる)。だが、それとは別に生な体験が、訪問者の中で形成されて行ってもいるのだ。果たしてポップアートさながらに一人歩きし、増幅する記号的イメージのライトニングフィールドか、それとも、ここの訪問者のうちに残る経験としてのライトニングフィールドか、どちらがデマリアの伝えたかったことなのだろうか? くっきりと意味を語る映像イメージに反して、個人に残る体験は、あまりにも頼りなく、モワモワしたものなのである。