その人が言う。「お金は、いらんし」
父が返す「いや、そんな訳にはいかんし」
「‥‥し」と金沢弁での話し声が聞こえる。
蒔絵師の父が、いつもは注文していない木地師のその人に、
硯箱の筆先に付けるキャップの木地を注文したものの注文通りにごく薄作りの木地は出来なかったのだ。
2個あれば良いのだが、その5~6個はどれも薄いところに穴があいてしまっていた。
きっと沢山作ってはみたがどれもうまくいかず、
そのうちの良さそうな5~6個を持って来て出来なかった旨を伝えている。
その人は出来なかったから代金はいらないと言い、その5~6個のキャップを置いて帰ろうとし、
父は仕事をしてもらったのだからその分の代金は払うと言っている。
父はその仕事がとても繊細かつ難しいことは充分承知している。
器用な父は以前にそのキャップの木地を自身で作り蒔絵をしてもいる。
結局、代金を受け取ることなくその人は帰られた。
父は、後で別の注文を出して帳尻を合わせることにしたのだった。
加賀蒔絵の木地はとても繊細だ。
ひとつひとつ形が違い隅や角が多く、なおかつ厄介な薄作り。
そしてさらに精巧堅牢な塗りをしないと、かの精緻かつ清雅な加賀蒔絵とはならない。
目に見える仕事の数十倍緻密な見えない仕事の上に成り立っている。
薄作りも厄介だが、複雑な形の隅や角をシャープに仕上げるには大変技術が要ることは
塗りも蒔絵も同じこと。
指が届かない隅などをどうやって仕上げるのか、木地師さんも心配してくれる。
しかし、緻密さや精巧さという技巧が目につくような仕事は「いやらしい」と一番に避け、
ひとからも嫌われる。
技が目につかぬよう、ただただその味わいや品格を求めている。
そのための必要技巧でしかない。
周りの空間や心持ちとの調和こそが命だ。
祖父は木地を特別吟味し、名工に頼んでいた。
「木地が悪くて、いいもん出来る筈がないがや。どんだけ高くても(高価格)いいもんにしとかないかん」いつも言っていた。
「40年50年ももっと経って今よりもっと良くなるようにしとかんといかん」
200個ぐらいの挽物木地を作り、そのうち2~3個だけ使えたというほど吟味したものもあったと祖父からも、
祖父の没後に祖父はそうしていたと他の人からも聞いた。
祖父は挽物以外の木地のほとんどを木地師の市島栄吉さんに頼んでいた。
金沢の木地師らしく、箱などの指物はもとより、刳り物、曲物(曲げワッパ)、桶まで、挽物以外、何でもされた。
また、そうでなくては加賀蒔絵の木地にはならなかった。
全ての要素が含まれる木地がほとんどだからだ。
塗りも同じこと。塗りの名工も居た。
祖父や父の注文図面を見ると、フリーハンドの形状と外寸内寸厚みなど数カ所のみ書いてある。
子供心にもこれで大丈夫なのかと尋ねたこともある。
「ものの感じを解っているから、それで充分ながや。思っとったのと違ったことはない。名工や。」
と祖父は市島栄吉さんのことをそう結んだ。
その、「感じ」というものを共有出来ている人となら仕事が出来る。(うまくいく)し、
そうでなければどれだけ苦心したところで、いいもの思ったものは出来ないと言う。
私もその市島さんにお世話になっていたが、木地図面は他の方に倣い製図調のものを渡し注文していた。
ある時、とても複雑で模型が必要かと思える図面を持って行った。
いつものように、カンナ屑のついた仕事着物は着替え直し、「お待たせして」と笑顔で応対してくれる。
ややこしく言葉を選び詰まりのよく分からない説明を無言で聞いてくれた後、
「ちょっと待って」と厚紙と小刀を持ち出された。
図面を横目にフリーハンドで40㎝程の曲線を厚紙に一息に切り、
その切られた厚紙を図面の曲線に合わせて「これでいいですか?」と一言。
寸部たがわず厚紙と図面の曲線はピッタリ合っている。
びっくり仰天。
「はい。結構です、、、。」
次に継ぐ一言もあるはずは無く、帰ることになった。
この時のことは、ずっと忘れない。
その時そのものを今でも私の中に持っている。
後日、木地が出来上がった。思っていたのとは違う。
違う筈だ。自分が思っていた事を図面に出来ていなかっただけの話だ。
木地図を寸法どおりどれだけ正確に書いて寸法どおりに作っても
思った感じ通りということになった試しがない。
「感じ」は 寸法では表せない。
いや、感じだけではない。実際蓋の下り具合など手で書く図面にはできない。
挽物であれば、幾つもサンプルを作り修正していく。
そして完成を予想しつつ塗りでも調整を積み重ねる。
心に深く響いた言葉がある。
木工の2代池田作美さん宅へお伺いした際、
お仕事場で作業を拝見しながら話が初代池田作美氏作の作られ棚に及んだ。
指物、刳物、透かしなど、作ることを考えると気の遠くなる棚だが、
素晴らしく美しい。
「私の父ながら、本当にいい仕事をした偉い人やと思うわ。」
と控えめすぎる2代目さんがしみじみ一言、口に出された。
決して人前で身内を褒めたりしないであろう人の
工人から工人への畏敬の念とともに清しい清しい忘れられない一言だった。
私の祖父は「いちがいな きかん ひと」とよく言われた。
聞いた話では、祖父が塗り上げた品物を買おうとした人が、
これには下地に布が貼ってないだろうから安くしろと言ったところ、
祖父はその場で近くにあった火箸でその仕上がった塗面を掘り起こし、「布は貼ってある。」と言い放ち帰ったという。
見た目に薄造りでそう思ったのか、値段を下げるために外見からは証明出来得ない総麻布張りという工程を疑う言葉を発っせられたのだろう。
その場に置いて帰ってたのか持ち帰って捨てたのかはつまびらかでではないが、
もう使いものにはならない。
目立たない場所を堀返す筈もなく、一番の見どころをそうしているに違いない。
持ち帰ったところで、その部分を塗り繕い直せても、良い漆を使う程のちのち繕ってあることが鮮明になってくる。
ケチのついたものすぐに捨てるに決まっている。
また、香炉など載せる卓を納品に行った際に、注文主が「とてもすっきり思い通り出来て嬉しいわ。綺麗やしあんまり重いもの乗せれんかね。」と言ったら、
その卓の上でトントン踏んで見せた。という話も聞いた。
蒔絵がしてあったのどろうか。塗りだけのものもあれば、螺鈿だけのものもある。
卓の上でジャンプして見せたということだが、体の小さかった祖父ならまだしも、
自分であればどうだろう。
金沢に自動車が初めて登場したとき、自動車を漆塗りしたもと聞き、
何気ないときハイカラなところもあったことを忍ばせることもあった。
布に例えると麻のような祖父であった。
かつて、天皇陛下のお召し列車は漆塗り、
現在の国会議場は金沢からも多くの職人が出向き漆が塗られたという。
父は、病弱ながら蒔絵に一意専心。外に出る事はほとんどなかった。
仕事関係でも祖父、母の顔はご存知でも父の顔を知らない人は多かった。
そして、父が怒った姿を見たのは一度きり。怒ることのない人であった。
私も一度も叱られたり怒られたことはない。
木綿のような感じがするひとであった。
ひと昔前の金沢の職人さんたちの逸話は巷に尽きない。
誰もが職人に手を取らす時間を慮りつつ優しくもあり、厳しかった。
皆、思い出を持っている。
私が仕事をし始めた頃でも、
いつもベレー帽を被っておられた方や、いつどのような場へ出向く時も素足に下駄を突っ掛けて上着を着ることはなく
折り目の跡など微塵もない短めのズボンという同じいでたちの方もおられた。
漆のひとには一風風変わりなひとが多いのかと、
外見についてだけは いぶかりつつ父に問うと「彼には 主義がある」と返した。
その青若い自分を今はとても恥ずかく思う。
ある方から、羽織袴で納品に訪れられた陶工に感服至極であったというお話も聞いている。
金沢は様々な職人で溢れていたのだろう。
皆、職分は違えど腕のいい職人に畏敬の念を持ち、憧れ、そうなりたいと精進し、
そして外には出さないが心に敬意をもって接していた。
同業であろうが、なかろうが。籠屋であろうが、庭師であろうが。
そして親であろうと、ひとりの作り手として敬意を持っているに違いない。
そのことを決して存命のうちに漏らす筈はないのだが。
謡の降る町、空から謡が聞こえるという金沢。
松の剪定が必要なお屋敷で庭師が松葉を透かしつつ謡を口づさんだのだろう。
「庭師入れるのが一番気が張るがや。」と皆そのように言う。
「お昼(昼食)へんなもん出せんし。」
庭師さんはきれいな仕事をして、美味しいもの食べられていいなぁ。
と子供心に思ったものだ。
祖父は猫の額ほどもない庭などとはけっして言えない我が家の背戸の石を買うのに、
年端もいかぬ私を連れて行ってくれた。
そして庭石と呼べぬほどの幾つかの石を購入したが、「どれが好きや」と言い、
そのひとつは一番好きと言ったシルクハット形の石を買ってくれた。
後日、庭を堀り丸太櫓でその奇妙な形の石や踏石を据える光景を飽かず見入っていた。
あと20年するとここの木はこうなるし、と遠い先を見詰める老庭師であった。
石のひとつを私の一番好きな石にしてくれた嬉しい嬉しい記憶だが、
今、この文章を書きつつ思い返すと、
その珍奇な石を庭に据えれるよう祖父と庭師さんが相談して他の石を決めたのだ。
今、解った。
そうでなければ、この小さい庭にこの珍奇な石は納まらない。
今、その帽子石の存在感のあった鍔は七分かた苔に覆われている。
金沢・まち
「ここは何処?」
こころのなかで叫び、思わず不安もよぎる。
初めてその場に立つ旅人のようだ。
この地で生まれもう半世紀余りを暮らしているというのに、
そんな瞬間をたびたび経験する金沢のまち。
いまだに足を踏み入れたことがない場所ばかり。
無闇に何処へでも入ったら出れないとの経験則から全く知らない所も多い。
それでもちょっとの冒険心に駆られ入ったことのない路地へ入る。
「それにきっと近道だろうし、、」と。
下見板の板壁に挟まれ曲がった細路。生垣、板塀、黒瓦。
その先に道はあるの? とT字路を曲がる。
途端に右も左も北も南もわからなくなり、おまけにお日まさは雲隠れしている。
思わぬ石段、急に出くわした広見そして袋小路。
この路は近かったの?
進んでいるのか遠ざかっているのかは勘のみが頼り。
突然に目の前の展望が開けてまた閉じる。
ただ、こんなところがあったのだ!
と少年のこころは満ち足り、その場しか持ち得ない情緒に包まれてしまう。
展望開ける蛤坂やW坂(石伐坂)、陰にあるともなきや近所の名もなき坂は往来してきた。
今ではすっかり有名になった「暗がり坂」を初めて降りたのは40歳を迎える少し前のこと。
金沢のふたつの台地の間を抜ける犀川・浅野川に加え小さな川と用水も縦横に走る。
昔の水路も道になり、
呼称がきっとあるだろう、またそれと気づかぬ坂や橋が沢山に待ち構えている。
きむすこ(木虫籠)と呼ぶ細木の出格子を持つ町家。
その出格子が弁柄に塗られた茶屋街。
小さな子出入口も付いた欅板の玄関大戸。
武家屋敷の土塀、足軽屋敷。
路地通り一本出入するたび、坂を登り下するたびに景色と情緒が様変わりする。
我家は城下の南端。北國街道沿いになる。
祖父が子供の頃には近所に関所の跡がまだあったと語っていた。
金沢の町家らしく白い漆喰が塗られた火除けの為のうだつ壁、高さのない二階連子窓。
家の前には「どぼそ」と呼ぶ側溝があり、家に入るにも1尺ほどの小さな橋を渡る。
用水沿いの家となれば、立派な橋を渡ることになる。
一歩家の内に入れば、
後庭まで続く叩きの通り土間。天井のない吹き抜けの柱格子の間も漆喰が塗られ、
土蔵の作りにも似る。
仄暗い中そこに天窓からの明かりが差す。
土間は地下の氷室(ひむろ)にも通じ、年中冷やっこい。
奥や二階に、朱壁の座敷や茶室を備えた家も特段珍しいわけではない。
兼六園もかつては金沢のひとの通り抜ける近道の庭でもあり、
城下の住みびとという感じが今よりずっと強かった。
雪は降り始めが綺麗と、早朝の兼六園で足跡のない新雪を踏む楽しみもあった。
唐傘山からの眺めもご馳走のひとつ。
ここも曲がりくねった空間の庭。
お堀の向こうは、石垣・海鼠塀・鉛瓦の金沢城。
城内は金沢大学があったため石川門の枡形までは誰でも入れた。
今は市民も観光客も出入りしやすいよう整備され以前の枡形たる面影は全く薄れている。
尾山神社山門に光るステンドグラス。
右も左も前も後ろもお寺ばかりの寺町、東山。
今もって不思議不思議。小さい町にお寺がいっぱい。
そこからは、街並みと川と雪を抱いた山々の眺望が開ける。
この歩いて廻るスケールに驚くほど異種な風景が混じり込んでいる場所で、
情緒が体に染み入るように金沢の人は暮らしているのかもしれない。
中世、荘園支配からの脱却を目指し、全国初ともいわれる宗教自治都市を成立させた金沢。圧政に苦しむ農民と一向宗が結びつき「百姓の持ちたる国」ともいわれた。現在の金沢城は、もともと一向宗の本拠、金沢御堂あとに建てられたものである。また、当時、金沢御堂へのアクセスであった甚右衛門坂の下、金沢商工会議所から大谷廟周辺は一向宗の寺内町として栄えていた。
その後、織田信長の重臣で北陸地方の平定を任じられていた柴田勝家の命により甥である佐久間盛政が一向宗を討ち、金沢御堂あとに居城を構え金沢を制圧する。しかしわずかその3年後、信長没後の主導権争いである賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が敗戦。秀吉が天下を取り前田の殿様ご入城となるのである。しかしこの合戦の敗因が、勝家の忠告を聞かず秀吉陣の奥深くまで攻め入った盛政の戦略ミスと、途中で戦いを放棄し退却した前田利家軍にあると言われているのは皮肉でもあり、また「金沢」が大きく歴史に関わった一ページともいえる。
さて、前田利家は秀吉による伴天連追放令後、親しかった高山右近を庇護し、右近の家臣や右近を頼って来た武将や藩士をはじめとするキリシタンが多く金沢に移りすんだ。彼らが移り住んだというのが、前出の甚右衛門坂を下った地域、元々一向宗徒が住んでいた地域というのがまた皮肉である。
右近は築城の名手であった。金沢城の初期の築城には関わっていないが、火事で焼けたあと建てられた菱櫓は彼の設計とも推測される。京都南蛮寺と階層組みや屋根形状などで共通点が多く、キリスト教建築の特徴も垣間見える。翻ってみると、明治初期に卯辰八幡社より前田利家公のご神体を遷座し、建てられた尾山神社の神門も単なる擬洋式建築を超え、ステンドグラスやアーチ型の門梁、レンガ色の石張りなど教会建築にもみられるデザインファクターが多く存する。元加賀藩お抱え大工のデザインとみられ、もしかすると江戸草創期の右近をはじめとするキリシタンの影響が金沢建築に残ったのかもしれない。
(つづく)
| 土曜日 20 12月 2014
金沢まちづくりキーマンインタビュー(1)浦淳さんpart3「これからの金沢のまちづくりはどうあるべきだと考えますか?」
NAOMI UCHIDAエッセイ
(part2からつづく)
最後は、今後のまちづくりについてどう考えるかを聞いてみました。
3.今後の金沢のまちづくりはどうあるべきだと考えますか?
ひとつは、文化に触れていきながらボトムアップでつくっていかなくてはならないということがあると思います。まちの作り手・担い手を感じてほしいです。
文化というものは定量的でないので非常に難しいが、建築をわかった人や都市をわかった人がまちづくりをやると、まちづくりのやり方は変わってくるでしょう。それは身の置き方で違ってくるけれども、これができていくと建築の幅というものが広がるし、おもしろいと思います。
古いものも新しいものも残っている金沢は、それをやるのに最適な場所だと思います。横断的なことができる、リーダー(専門家になるかもしれないが)のような人が育ってきてくれるととても面白いでしょう。
新幹線後(2014年度開通)はどう考えますか?
新幹線が来た後の金沢について、ですが、今まで新幹線がなかったから今も残っているものは絶対あるはずです。新幹線ができたとたんに、東京資本が入りまちが壊される可能性があります。そういう例はたくさんあるのです。ビルができたり、どこも同じようなものが入ってしまったり、そういうことにならないように、今から守っていきたいです。新幹線がなかったからこそ今ある資源を考え、コントロールを考えていかなくてはならないのです。
一方、新幹線のプラス面は多くの人が往来することや、セカンドオフィスを構えるなどが考えられます。セカンドオフィスは、現代はPC一つで仕事が出来る時代なので可能でしょう。また、東京ではなく金沢に住むという選択ができるということもあります。都会に住む人は朝から満員電車に乗っています。自分も都会で住んでいたとき、一度電車を降りたら乗れないというような目に遭い、朝からへとへとになっていました。会社からの帰りも大変でした。金沢に住むのは、都市に生きるのとは違う選択肢があるのではないでしょうか。金沢はごはんも美味しいし、地価が安いので。都市は都市でたくさんいいことはあるけれども、そうじゃない選択をしたい人もたくさんいるでしょうから、そういう人たちにむけた施策が必要ではないでしょうか。
政策は、例えば都会にオフィスがあるけどセカンドオフィスをこっちに持つというような.ハード的な側面がひとつあるでしょうし、もうひとつはソフト的なコミュニティとして、外から来た人たちを受け入れていく特別なまちをつくることもあるでしょう。つまり、外からの人を受け入れる寛容性とコミュニティをつくることです。極端な例で言えばアメリカのサンタフェのような、いろんな人種の人がいていろんな人が入ってくるようなまちです。金沢は地方都市のモデルになるべきなのです。
もうひとつ、国内だけではなく、海外から人がくることも増えるでしょう。成田や羽田から、金沢に来て京都に行くというルートが考えられます。外国人を呼ぶというハードとソフトをどうつくっていくかということと、視点をもう少し大きく見て、地域で言えば金沢だけではなくて能登も富山もある、高岡に行けば室堂があるし、高山にはミシュラン3つ星のレストランや世界遺産もある、福井にはカニなど美味しいものがあるし永平寺もあるし、北陸の魅力を掛けあわせて地域連携を考えたいです。
地域が(自治体として)一緒になることはないけれど、都市間競争をするのではなくもっと外を見てこの機に何かやることも考えるべきではないでしょうか。
海外からのお客さんも増えています
| 土曜日 20 12月 2014
金沢まちづくりキーマンインタビュー(1)浦淳さんpart2「いまの金沢というまちについて感じていることはありますか?」
NAOMI UCHIDAエッセイ
(part1からつづく)
ひきつづきおうかがいしたおはなしを紹介しますが、基本的にきっかけ→いまのまちにおもうこと→将来について、という順番でお話をおうかがいしています。part2はいまの金沢というまちについて感じること、です。
2.いまの金沢というまちについて感じていることはありますか?
水が美味しいとか、自然のいろんな条件があって金沢が成り立っているということが重要なのです。奇跡的な条件、歴史と自然が重なって今の金沢のこの豊かさがあるということを大切にしないといけないのでしょう。
現代の金沢の良さですが、21世紀美術館ができてから、とても変わったと感じます。 僕が子供の頃は良かったですが、一時期「伝統」に偏りすぎて、外の力を取り込むことを忘れていた時代がありました。でも現実は、伝統は誰かがつくったものであって、誰かが伝統をつくっているわけなのです。閉塞感を打破してくれたのが21世紀美術館だといえます。
21世紀美術館はまちなかに白い楕円で、伝統的でないとダメだと言われ、当時反対の声は大きかったのです。「なんで金沢に現代アートなのか」という反対の声があったわけですが、でもそれは違うと思います。絶滅危惧種を守ることは大事ですが、保護ばかりしていると、適応能力が縮んでいくわけで、進化が必要なのです。つまり、(古くからある)希少種は大事だが、大事にし過ぎると息苦しくて新しいものが何も出てこなくなってしまうわけです。それは自然に逆らっていると思います。21世紀美術館ができるといろんな人が集まってきました。そして、もともと伝統的なもので、とてもいいものが金沢にはあるので、それと掛けあわせてなにか新しいものが生まれていかないかな、というのが今の状況だと感じます。そういったことができるのは、地方都市でも金沢くらいではないでしょうか。
金沢21世紀美術館
金沢のまちづくりのキーマンにインタビューをすることを始めました。目的は、金沢のまちづくりがどのようなひとびとによっておこなわれ、そのひとたちがどのようなことを考えているか、ということが、これからの金沢を考えるうえでヒントになると思ったからです。
まずは、NPO法人趣都金澤の理事長である浦淳さんにおうかがいしました。ここから、いろんな方におなじ質問をしながら、金沢のまちづくりキーマンをご紹介していきたいと思います。
1.まちづくりにかかわったきっかけはなんですか?
小さいとき、親戚が東京に住んでいたので、行ってはよく金沢と比較していました。東京には人が多くて、地下鉄があって駅があってそこに賑わいがあるとか、地下に商店街があったりするので、金沢で同じ事をあてはめるのは無理だけど、バスに乗りながら、金沢にも電車があればいいなあとか、そんなことをよく考えていたのです。
大学では建築史の研究室で奈良や京都のまち並みについて研究しました。その後チベット・ネパールなどのアジア諸国やトルコやギリシアなどにバックパッカーとして1人で訪れたりしました。1都市につき1週間程度滞在すると、日本の常識には存在しない、人と、村・まち・建築とのつながり方が見えてきたのです。単なる建築ではなく、人と都市・宗教・風土といった要素との関係性が面白いと思いました。
ちょうどそのころ日本では石山修武さんのように建築家がまちづくりに挑戦し始めた頃(編集注:石山修武さんは早稲田大学教授で、気仙沼のまちづくりを手がけていた)人とまちとの関わりに興味をもって見ていました。
その後就職して金沢に戻り、金沢青年会議所(JC)に入りました。まちづくりとの関係はそこからが大きくなりましたね。トップダウン型のまちづくりは高度成長期には有効ですが、今後はそんな余力もないので、ボトムアップ型で、皆で考え、皆でつくっていかなければいけない、合意形成によって物事をやらなくてはいけない時代になったと思います。なので、担い手を育てながらまちづくりをやっていかないといけないと考えました。
そこで、趣都金沢構想というものをJCでつくったのですが、それは21世紀美術館のオープンの前年(2004)で、ちょうど金沢のターニングポイントだった時期でした。このとき、まちづくりは内発的で持続可能でなくてはならないということを考えたのです。「趣都」とは、趣深いまち、オンリーワンのまちづくりという意味で、「趣都」という造語を作ったのです。これからの都市像というのは、“◯◯都市”ではなく、市民にわかりやすくあるべきだと思って、イメージしやすいスローガンを掲げました。
そこから燈涼会(http://toryoe.jp/)を始めたり、知名度や認知度を上げる意味でもNPOの法人格を取得したりしました。まちづくりの勉強会も、多様なひとたちと始めたのです。
(part2につづく)
(1)では、ふるい地図をもちいて、昭和よりまえの金沢のまちのよみとりをお見せしました。
さて、昭和になってまちがどう変化したでしょうか・・・。
特に急激な変化がおきた、第二次世界大戦後の変化をみてみましょう。
地図を手にいれる関係上、1966年からの変化を見てみます。
※1
1966年には、地域で自律した生活が可能になるような施設がまだたくさんのこっていました。魚屋さん、豆腐屋さん、などなど・・・個人商店がなりたっていた時代ですね。伝統をかんじさせる、染め物屋さんものこっていました。
ところが、1980年代を経ると、急激に駐車場が増加します。バブルの影響だと思いますが、まちなみが歯抜けになってしまうのです。
それから、東山が観光地としてのいちづけを高めるにつれて、観光客むけの土地利用も増えていきました。
金沢のまちはうつくしいまちなみが今ものこっていますが、1980年代から90年代までの経済状況が、いまもまちなみに大きな傷をのこしているのです。こういったことはなかなか取り返しがつかないことですし、みんなで慎重にまちのありかたを考えていかなければ、経済原理にしたがってまちがつくられていってしまうのです。
もちろん単純に古いものを残せばいいということでもありませんし、個別の事情もあるのですが、たいせつなものを残すための助けかた、をもつことが金沢にほんものを残していくことにつながるでしょう。
※1 内田奈芳美「地方都市中心市街地内の「狭間の地域」の将来像」日本建築学会学術講演梗概集F-1 pp. 73-76(2010)
当たり前の話ですが、金沢のまちは変化し続けています。
まちの変遷をどのように読み取るか?
そういったことを大学では研究しています。
金沢はまちの中で普通に歴史が重なって併存しています。だからこそ読み取りが面白いのです。特に面白いのは「狭間」にある地域。つまり、超・現代的でもなく、歴史的保全地区でもないところです。そういったところに、特に金沢らしさが見えます。
事例として歴史ある地域ですが、尾張町と東山に挟まれた「狭間」の地域である「下新町」を取り上げてみましょう。ここは旧町名復活の制度で、まちの名前を古いものに戻した地域です。
ここではよみとりかたの例として、地図をなぞってみます。
まず江戸時代の地図のよみとりです。
金沢では江戸時代のまちの地図が容易に手に入ります。玉川図書館などがおすすめです。
では図書館で手に入れた江戸時代の地図をよみとってみましょう。
※1
これは延宝年間(1673年〜1681年)の地図を分析した図です。現在の久保市乙剣宮のある周辺の場所ですが、この当時は神社は卯辰山に移転しており、お屋敷用の敷地となっています。
また、水のある場所は人が集まるので市場ができ、人が集まる場所となったのです。
この「市」が常市だったのか、たまに開かれる市だったのかはわかりません。でも、とにかく市場というのは交易の場として、都市の基礎をいつだってつくるしかけなのです。
そして次に手に入った地図は明治38年の地図でした。
さて、どう変化したでしょうか。よみとってみましょう。
※1
卯辰山に移動していた神社がもとの場所に戻ってきましたね。
他にも大きな変化があったのですが、お気づきでしょうか?
神社の前の道が表通りにつながったのですね。それまでは裏通りは独立して静かな場所だった(室生犀星もそういっています)のですが、この時期は一気ににぎやかな場所となりました。芝居小屋、寄席、ビリヤード場など、今では想像がつかないようなお店がならんでいました。一方、この時期に都市の基礎となる機能である市場は 近江町に移っていきました。
次回は昭和の変化についてお話しします。
※1 内田奈芳美「地方都市中心市街地内の「狭間の地域」の将来像」日本建築学会学術講演梗概集F-1 pp. 73-76(2010)
さて、分析方法を使っていろんな国からの参加者の写真を分析しました。ここからは参加者のみなさんの写真をお借りします。
まず特徴的だった韓国からの参加者Aさんの写真について。(以下の写真はAさんが撮影したものです)
初日の代表的な写真です。
ディティールに着目したすてきな写真ですね。
さて最終日直前の写真はどうなったでしょうか・・・
ずいぶん視点が変化しています。
Aさんは最初とても小さな細工に着目して「金沢らしいもの」「日本らしいもの」を対象に写真を撮っていたのです。(いわゆる「小さな景観」ですね)ところが数日経ち、まちについていろいろと分かってくると、空洞化しつつあるまちなみが気になってきたようです。
これは他の外国人参加者も同じような感想を持っていました。
これから外部からいろんなお客様を金沢に迎えるとき、長期間滞在していかれる方々は同じような点が気になるかもしれません。
まちづくりとして、考えていかなくてはいけないポイントのひとつです。
外部からいらっしゃった方から、金沢の景観はどのように見えるでしょうか?
「金沢の景観」というと、町家が並ぶまちなみのようなイメージがあるかもしれませんが、実はもう少し多様で、実はいろんな問題をかかえています。
「金沢の景観の見え方」を科学的に解明してみました。
2011年夏に金沢で各国学生が参加して、金沢という城下町のまちのデザインを考える国際ワークショップを行い
(詳しくは http://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/wwwr/iwjk/index.html をご覧ください)
そこで参加者に尾張町〜新町〜東山地域の点検まちあるきをしながら写真を撮ってもらいました。写真は自由に関心のあるものを撮ってもらいました。その写真を下の図のような方法で分析しました。
(金沢工業大学2011年内田研卒業論文から引用)
写真の中心に写っているもの、そして写真の中で大部分を面積的に占めているものを分析することで、まちのどのような要素に着目して写真を撮っていたかということを、客観的に明らかにしようとしたのです。5ヶ国から来た、計35名の参加学生が10日のワークショップの間に撮った写真を全て分析しました。(分析は卒業論文として金沢工業大学4年生(当時)が中心となっておこなってくれました。)
ここから何回かに分けて、どのような特徴があったかを紹介したいと思います。