金沢まち・ひと会議

ESSAY | 水曜日 17 2月 2016

《金沢》と《ミルフィーユ》

SHOUITSU NISHIMURAエッセイ

いつもミルフィーユと聞くと金沢のことを想う。

30年余りも前のことだ。
今と違って甘いものを食べなかった頃、誘われミルフーユケーキなるものを食することとなった。
初めて見るミルフィーユは、パイ生地・チョコレートの薄板・
生クリームにフルーツ・スポンジと様々に層をなして、綺麗で美味しそう。

どこから手をつけてよいのやら、、、、。

案の定、グチャグチャに散らかし食べ終えた。
美味しかったのだろうが、味はさっぱり覚えていない。
只々、食べにくい思い出が残った。

そして《金沢》みたいだと その時思った。

建築家の水野一郎先生が、金沢はバームクーヘン都市と表現されていると最近知り、
きっと同じように思っておられるのだと思うと嬉しく光栄だ。

ミルフィーユ。 美味しさが層をなしている。味は食べてのお楽しみ。
どう食べようかで味も変わろうというもの。

チョコやパイ、各層その下は横から見るしかない。
味を思い描きつつフォークを縦に入れると、堅めのパイやチョコレートが下の柔らかいクリームなどを押し出し
綺麗だったはずのその層も台無しになる。

最初にみたミルフィーユは全部の層が違っていた。と思う。

今インターネットでミルフィーユの画像を探すと、割とシンプルで食べやすそうなミルフィーユが多くなっていて期待を外れたが、
それでも多種多様。あの食べにくそうなミルフィーユが今でも少し形を変えそんなに健在なのだ。

コアなファンも多いことがわかる。
最初に見たミルフィーユの画像に行き当たらないので、その道のプロ、同級生に尋ねると様々な情報を寄せてくれた。
流石!ありがとう‼︎
教えてくれた本場フランスのミルフィーユが思い出深いミルフィーユに一番近かった。

素材が活きている。

金沢のまち。

町の名も様々だ。
横山町・五十人町/尾張町・近江町/白銀町・大工町/寺町・春日町/銀杏町・地黄煎町/油車・六枚町・・
武家/商人/工人/寺社/自然、故事由来も名をあげればきりがない。

「旧町名ならだいたい場所の見当がつくのに、、。」仕事の使いが多い母の口癖だった。

歩いて廻るスケールの金沢の城下だが、海も近い、山も近い。
町から6km程直線に伸びる金石往還(藩政期造営)の先は日本海。ここはかつて銭屋五兵衛も活躍した北前船で栄えた金石町。
ここに1300年近く鎮座する大野湊神社の能舞台では神事能が400年程続いている。
隣の大野町は造り醤油で知られるが、両町共に古い町家が多く残っている。

金沢のまちのすぐ背には山も迫り竹藪も多く筍も美味しい。
山合いの町も多く、そのひとつ二俣町の和紙は1300年前を起源とし桂離宮松琴亭の襖や床に使われている。
青と白の加賀奉書が市松模様に貼られとてもモダンだ。

我家にも青白市松文様の入った襖がある。
もう45年を過ぎ随分すたれている。が、代える決心がつかない。
襖を新調した頃には、そういった襖紙をつくるひとも使うひともあまたあっただろう。
今のカタログには無い。

部屋と建主を見て建具屋さんが祖父や父と相談もせずに入れたように思う。
襖の胡桃の縁は全く年月を感じさせず、だんだんに美しく思う。

 
4−1我家の青白市松の襖

外から見えない金沢。
外に見せない金沢。

ひとも物も空間も多様。
道も路も未知。

オヤジギャグではないが、路にしかり、
芸道に入るにもチョコレートの薄板に阻まれて、先が見えないばかりか、壁が硬そうだ。
チョコばかりではない。パイ生地の薄い層といえど曲者顏で破壊力は相当にあり時に皿を飛び出してしまう。

見えているようで、見えてはいない。

《ひと》は実際に触って初めて見えていなかったことがわかる。
物や器は使われ淘汰される。

薄い層を根気よく剥がしていくと、綺麗な下の層にたどり着く。
ある時、コチッとチョコの薄板が気持ちよく割れ、下の生クリームやフルーツと美味しく味わえる。
チョコも熱にゆるむ。

だが、パイの剥がれた極薄い断片をひとつ食べてもパイ生地の美味しさには辿りつけない。

大胆に食べたいように食べて醍醐味となる。
慣れてくれば散らかることなく様々に楽しめよう。

見えない先、先を見ない繰り返しの中で、生まれてくる楽しみも味わい深い。
忽然と美しいものを目にした時の喜び。
忽然と真理に触れる畏敬。

客層は30才前後のある酒場でのこと。
カウンターに連れではないひとり一人が肩を連ねている。
「今年は寒くって、道もつるんつるんやし。、、、みんなお能みたいに歩いてたし。」
「そうそう、みんなお能の様やった」、、、、
「学校から必ずみんなお能を観に行ったし」
と4人程肩をよじらせ話している。
能の足の運びのように、腰を据え足を上げずの安定した歩き方で凍った雪の上をささと進む様子を言ったのだろうが、
凍った雪道からのお能の話しを、若いひとがグラスを傾けしている。

 

 

 

 

 

 

 

着物離れも進む中、街をゆくと若い方の着物姿も増えた。
新幹線での観光の中、レンタル着物で散策、お抹茶もという女子やカップルが増えたこともある。
少し前まで、およそ着物とは言いづらい光景もあったがしばらくの間にいい感じも増えてるように見える。

ミルフィーユにまた美味しい層が積まれつつある。
無邪気で新鮮な素材が重なってほしい。

金沢にはワンダーランド、
子ども心も大人ごころにも少なくなったが邂逅が今も残る。路もひとも道も。
冒険心とちょっとの勇気。
そして辛抱や根気というのもちょっとは入れたほうが滋味風味も深まるというものだ。

 
4−3雪の中

 

シルクロードの東端で文化を醸した日本のように、都に遠く都の風の吹き溜まりの根雪のようにうず高くに成し成された金沢。

魑魅魍魎に出会うのは滅相もないが、路地や木立の傍、座敷や蔵の奥から何か覗かれているような気がするくらいの
場が少しは在り続ける金沢であって欲しい。

そういう金沢に住んで居たい。

 

 

4−4加賀獅子舞稽古

ESSAY | 水曜日 17 2月 2016

金沢・ひと その2

SHOUITSU NISHIMURAエッセイ

中学2年。そのほとんどの時間をともに過ごした友がいる。
放課後休日問わず家を行き来していた。
遊び盛りで彼の家がどんな仕事をしているかなど全く無頓着に大きい家の彼の部屋へ直行して時を過ごした。
ある日、その家の奥の部屋にいくことがあった。
どうしてそうなったかは覚えてはいないが、薄暗い割と広い廊下を進んだ大きな襖の部屋だったように思う。
彼が襖を開けたとたんに目を覆った朱壁。
金沢の商家や町家には朱壁の座敷を持つ家はあったが、これほどの朱壁の部屋は見たことがなかった。
その奥の間の群青の青も垣間見えた。群青壁のそんな大座敷があることに驚いた。
いつも傍にいる友がそうした家に生を受けていたとは終ぞ思ったことが無かった。

別の話になるが、ある同級生の親友からお茶を嗜む訳でもないのに棗の注文があった
そして、「前金は幾らほど、、、。」と尋ねられ驚いた。
親から職人にものを頼む時は3分の1ほどは前金を払うものだということは以前から聞いているが、
どれくらい払えばよいのかわからないので、、。と続ける。

「いや、前金もらって作ってないし。」と答えるとそれで頼んでよいのかと言う。

私も祖父や両親から聞いてはいるし、そうしている姿も見ているが、世代も変わり時代も変っている。
前金は有難い話でもあるが荷が重くもあり貰った機会はなかったが
幼馴染みの、それも仕事や趣味が格別その向きでもない友の言葉に驚いた。

思えば、昔から彼の家の玄関には金沢の誰もが知る高名な漆芸家の衝立がある。
友曰く、「やっぱり、いいものはいいし、何かいいもの家に欲しいし。何かないとね。両親も好きやし。」
ああ、そうなのか、と同い年の言葉に金沢を気付かされる。
今でも、「すぐにお支払いします。親からもそう聞かされていますし。」と仰る方も少なくはない。

金沢のひとは資産を3分割すると言われていた。

無論、資産家や旦那衆でのことだが、不動産と動産と道具とに三等分する知恵。
道具というのは、美術品だったり、茶の湯や宴席の道具であったりだが、資産としての価値を持ち続け得るものであり、
それと家宝とするものとが「お」を付けられ、お道具となり、「お蔵」に入るものである。
色々と名品や良いもの、面白いものをお持ちのかたを「お蔵が深い」とも言ったりする。
お蔵の深いその奥には何があるのだろう。
代替わりに持ち主からも知られずに何か眠っているかもしれない。

お侍と旦那衆が金沢の文化と言われる中心を担ってきた。
百万石の前田家と家臣、町方旦那衆どちらの車輪も外せない。

何かの両輪とよく言うが、金沢にはまだ他にも車輪があるように思う。

金沢の美術館でさほど地元に縁のない洋画家の回顧展が開かれた。
その初日、会場で町内の顔見知りの4名の方と顔を合わせた。
町内町会と言っても北國街道沿いの130戸程。
開会式直後だから、それぞれ一番に見に来たということになる。

ご近所のかたの葬儀に出る。自動車製造会社の定年を過ぎ古希もだいぶ超えられてれた。
兄や妹とも大変縁のあった方だが、通夜で謡が大変好きでお上手であられたと初めて知った。
兄妹も然程とは知らなかったという。

隣の班の建具屋さんも文化に興味が深いい分かってはいたが、謡を教えておいでるとは知らなかった。

蒔絵師は謡本の帳崩しを(謡曲を書いた本を分解して)金蒔絵の研ぎ汁を拭うのに使っている。

 
3−1謡本

 
自宅前の雪すかしをしていると、不意に思い掛けない知人が声をかけてくる。
その方のお住まいは随分離れて用事でもない限りここを通ることもないはずだ。
何処へ と尋ねると、この少し先の小唄の師匠のところへ通っているという。
この町内に小唄の師匠さんがおいでるとは知らなかった。
町歌を持つほどの町会なのだが、小唄の師匠さんのことは知らぬ方がほとんどだろう。

今では町並み保存地区のこの街道沿いでも町家の造りの家がほとんど姿を消した。
この辺りは鰻の寝床と呼ばれるように奥に細長い家屋が隙間なく連なる。
道も曲がっているので、寝床も捩れたり短かったりする。
何かの拍子にある家の奥庭や中庭の立派な木や灯籠が垣間見え驚いたこともある。

きっとあるだろう家は、この界隈にまだある。
金沢の街を歩くとあちこちにある。

ここら辺りは犀川の南口、職人たちが沢山居た。浅野川の北口も塗師が多かった。
今でも金箔関係は浅野川の北口。友禅川流しもある。
城下、両方の川の外側には、前田家の治める前から住む地の民の多い所。
下職も含め職人たちの多くは地の民だったのだろう。

戦国の世100年ほど「百姓の持ちたる国」としてあった金沢。

職人は独立独歩の気概高く、同業他者の生業より独自の制作に打ち込む人も多かった。
根気もある。心根もある。
いいものにも接し自身の中に生きている。
職商人(しょくあきんど)も多かった。自分で作って自分で売る人だ。
注文があったからそうなのか、作っても売れないからそうなのかはニワトリと卵。

金沢は地の利も手伝って本人の意識に関わらず食い道楽かも知れない。

見た目も味のうち、器がなんでも良いわけではない。
その食と場にあった器で食したい。港なら時に素手でもいい。
その港でも九谷で食べたい場もある。

正月には、蒔絵のお重におせちを詰め、
婚礼には、鯛の唐蒸し腹合わせを九谷色絵大皿に盛り謡《高砂》の一節がある。

治部煮もあり、専用の形の治部煮椀だってある。

 
3−2九谷 鉢

 
そして金沢のひとは着道楽とも言われる。
婚礼時持参の桐箪笥を埋める着物をご近所さんに披露されることが通例となれば、
当事者ならずとも皆、着物の目利きとなる。
持参の蒔絵のお重で配り物をすれば、受けるほうも塗り蒔絵の目利きとなろうというものだ。

金沢は気付かぬうちに目利きになる街だ。

食べることも、着ることも単に鑑賞者ではいられない。

器は使う。着物は袖を通す。
娘や嫁の婚儀には着物や蒔絵のお重を持たせ、受けねばならない。
持たせる方もどうしよう。受けるほうもどう受けよう。
その価値を解らねば失礼にあたるし、此方が誂える着物などもあるだろう。

持たせる受ける、双方に目が必要だ。
全ては使うという洗礼をうける当事者にならねばならない。

今ではそういうことは無い。期待もしないし、その気の重さからも解放されてすっきりした。
ただ、そういう時代を経て「いいもの」という美意識の洗練と共有がなされて来ての
今の金沢がある。

外からは見えない 金沢。

ESSAY | 水曜日 17 2月 2016

金沢・ひと

SHOUITSU NISHIMURAエッセイ

その人が言う。「お金は、いらんし」
父が返す「いや、そんな訳にはいかんし」

「‥‥し」と金沢弁での話し声が聞こえる。
蒔絵師の父が、いつもは注文していない木地師のその人に、
硯箱の筆先に付けるキャップの木地を注文したものの注文通りにごく薄作りの木地は出来なかったのだ。
2個あれば良いのだが、その5~6個はどれも薄いところに穴があいてしまっていた。
きっと沢山作ってはみたがどれもうまくいかず、
そのうちの良さそうな5~6個を持って来て出来なかった旨を伝えている。

その人は出来なかったから代金はいらないと言い、その5~6個のキャップを置いて帰ろうとし、
父は仕事をしてもらったのだからその分の代金は払うと言っている
父はその仕事がとても繊細かつ難しいことは充分承知している。
器用な父は以前にそのキャップの木地を自身で作り蒔絵をしてもいる。

結局、代金を受け取ることなくその人は帰られた。
父は、後で別の注文を出して帳尻を合わせることにしたのだった。

 
2−1蒔絵と筆

 
加賀蒔絵の木地はとても繊細だ。
ひとつひとつ形が違い隅や角が多く、なおかつ厄介な薄作り。
そしてさらに精巧堅牢な塗りをしないと、かの精緻かつ清雅な加賀蒔絵とはならない。
目に見える仕事の数十倍緻密な見えない仕事の上に成り立っている

薄作りも厄介だが、複雑な形の隅や角をシャープに仕上げるには大変技術が要ることは
塗りも蒔絵も同じこと。

指が届かない隅などをどうやって仕上げるのか、木地師さんも心配してくれる。

しかし、緻密さや精巧さという技巧が目につくような仕事は「いやらしい」と一番に避け、
ひとからも嫌われる。
技が目につかぬよう、ただただその味わいや品格を求めている。
そのための必要技巧でしかない。

周りの空間や心持ちとの調和こそが命だ。

祖父は木地を特別吟味し、名工に頼んでいた。
「木地が悪くて、いいもん出来る筈がないがや。どんだけ高くても(高価格)いいもんにしとかないかん」いつも言っていた。

40年50年ももっと経って今よりもっと良くなるようにしとかんといかん」

200個ぐらいの挽物木地を作り、そのうち2~3個だけ使えたというほど吟味したものもあったと祖父からも、
祖父の没後に祖父はそうしていたと他の人からも聞いた。

祖父は挽物以外の木地のほとんどを木地師の市島栄吉さんに頼んでいた。

金沢の木地師らしく、箱などの指物はもとより、刳り物、曲物(曲げワッパ)、桶まで、挽物以外、何でもされた。
また、そうでなくては加賀蒔絵の木地にはならなかった。
全ての要素が含まれる木地がほとんどだからだ。

塗りも同じこと。塗りの名工も居た。

祖父や父の注文図面を見ると、フリーハンドの形状と外寸内寸厚みなど数カ所のみ書いてある。
子供心にもこれで大丈夫なのかと尋ねたこともある。
「ものの感じを解っているから、それで充分ながや。思っとったのと違ったことはない。名工や。」
と祖父は市島栄吉さんのことをそう結んだ。

その、「感じ」というものを共有出来ている人となら仕事が出来る。(うまくいく)し、
そうでなければどれだけ苦心したところで、いいもの思ったものは出来ないと言う。

私もその市島さんにお世話になっていたが、木地図面は他の方に倣い製図調のものを渡し注文していた。
ある時、とても複雑で模型が必要かと思える図面を持って行った。
いつものように、カンナ屑のついた仕事着物は着替え直し、「お待たせして」と笑顔で応対してくれる。
ややこしく言葉を選び詰まりのよく分からない説明を無言で聞いてくれた後、

「ちょっと待って」と厚紙と小刀を持ち出された。

図面を横目にフリーハンドで40㎝程の曲線を厚紙に一息に切り、
その切られた厚紙を図面の曲線に合わせて「これでいいですか?」と一言。
寸部たがわず厚紙と図面の曲線はピッタリ合っている。
びっくり仰天。
「はい。結構です、、、。」

次に継ぐ一言もあるはずは無く、帰ることになった。

この時のことは、ずっと忘れない。
その時そのものを今でも私の中に持っている。

後日、木地が出来上がった。思っていたのとは違う。
違う筈だ。自分が思っていた事を図面に出来ていなかっただけの話だ。
木地図を寸法どおりどれだけ正確に書いて寸法どおりに作っても
思った感じ通りということになった試しがない。

「感じ」は 寸法では表せない。

いや、感じだけではない。実際蓋の下り具合など手で書く図面にはできない。
挽物であれば、幾つもサンプルを作り修正していく。
そして完成を予想しつつ塗りでも調整を積み重ねる。

心に深く響いた言葉がある。

木工の2代池田作美さん宅へお伺いした際、
お仕事場で作業を拝見しながら話が初代池田作美氏作の作られ棚に及んだ。
指物、刳物、透かしなど、作ることを考えると気の遠くなる棚だが、
素晴らしく美しい。

「私の父ながら、本当にいい仕事をした偉い人やと思うわ。」

と控えめすぎる2代目さんがしみじみ一言、口に出された。

決して人前で身内を褒めたりしないであろう人の
工人から工人への畏敬の念とともに清しい清しい忘れられない一言だった。

私の祖父は「いちがいな きかん ひと」とよく言われた。

聞いた話では、祖父が塗り上げた品物を買おうとした人が、
これには下地に布が貼ってないだろうから安くしろと言ったところ
祖父はその場で近くにあった火箸でその仕上がった塗面を掘り起こし、「布は貼ってある。」と言い放ち帰ったという。
見た目に薄造りでそう思ったのか、値段を下げるために外見からは証明出来得ない総麻布張りという工程を疑う言葉を発っせられたのだろう。
その場に置いて帰ってたのか持ち帰って捨てたのかはつまびらかでではないが、
もう使いものにはならない。

目立たない場所を堀返す筈もなく、一番の見どころをそうしているに違いない。
持ち帰ったところで、その部分を塗り繕い直せても、良い漆を使う程のちのち繕ってあることが鮮明になってくる。

ケチのついたものすぐに捨てるに決まっている。

また、香炉など載せる卓を納品に行った際に、注文主が「とてもすっきり思い通り出来て嬉しいわ。綺麗やしあんまり重いもの乗せれんかね。」と言ったら、
その卓の上でトントン踏んで見せた。という話も聞いた。

蒔絵がしてあったのどろうか。塗りだけのものもあれば、螺鈿だけのものもある。
卓の上でジャンプして見せたということだが、体の小さかった祖父ならまだしも、
自分であればどうだろう。

金沢に自動車が初めて登場したとき、自動車を漆塗りしたもと聞き、
何気ないときハイカラなところもあったことを忍ばせることもあった。

布に例えると麻のような祖父であった。

かつて、天皇陛下のお召し列車は漆塗り、
現在の国会議場は金沢からも多くの職人が出向き漆が塗られたという。

父は、病弱ながら蒔絵に一意専心。外に出る事はほとんどなかった。

仕事関係でも祖父、母の顔はご存知でも父の顔を知らない人は多かった。
そして、父が怒った姿を見たのは一度きり。怒ることのない人であった。
私も一度も叱られたり怒られたことはない。

木綿のような感じがするひとであった。

ひと昔前の金沢の職人さんたちの逸話は巷に尽きない。
誰もが職人に手を取らす時間を慮りつつ優しくもあり、厳しかった。
皆、思い出を持っている。

私が仕事をし始めた頃でも、
いつもベレー帽を被っておられた方や、いつどのような場へ出向く時も素足に下駄を突っ掛けて上着を着ることはなく
折り目の跡など微塵もない短めのズボンという同じいでたちの方もおられた。

漆のひとには一風風変わりなひとが多いのかと、
外見についてだけは いぶかりつつ父に問うと「彼には 主義がある」と返した。
その青若い自分を今はとても恥ずかく思う。

ある方から、羽織袴で納品に訪れられた陶工に感服至極であったというお話も聞いている。

金沢は様々な職人で溢れていたのだろう。
皆、職分は違えど腕のいい職人に畏敬の念を持ち、憧れ、そうなりたいと精進し、
そして外には出さないが心に敬意をもって接していた。

同業であろうが、なかろうが。籠屋であろうが、庭師であろうが。

そして親であろうと、ひとりの作り手として敬意を持っているに違いない。
そのことを決して存命のうちに漏らす筈はないのだが。

 
2−2土塀・松

 
謡の降る町、空から謡が聞こえるという金沢。
松の剪定が必要なお屋敷で庭師が松葉を透かしつつ謡を口づさんだのだろう。

「庭師入れるのが一番気が張るがや。」と皆そのように言う。
「お昼(昼食)へんなもん出せんし。」

庭師さんはきれいな仕事をして、美味しいもの食べられていいなぁ。
と子供心に思ったものだ。

祖父は猫の額ほどもない庭などとはけっして言えない我が家の背戸の石を買うのに、
年端もいかぬ私を連れて行ってくれた。
そして庭石と呼べぬほどの幾つかの石を購入したが、「どれが好きや」と言い、
そのひとつは一番好きと言ったシルクハット形の石を買ってくれた

後日、庭を堀り丸太櫓でその奇妙な形の石や踏石を据える光景を飽かず見入っていた。
あと20年するとここの木はこうなるし、と遠い先を見詰める老庭師であった。

石のひとつを私の一番好きな石にしてくれた嬉しい嬉しい記憶だが
今、この文章を書きつつ思い返すと、
その珍奇な石を庭に据えれるよう祖父と庭師さんが相談して他の石を決めたのだ。

今、解った。
そうでなければ、この小さい庭にこの珍奇な石は納まらない。
今、その帽子石の存在感のあった鍔は七分かた苔に覆われている。

 
2−3シルクハットのような石

ESSAY | 火曜日 16 2月 2016

金沢・まち

SHOUITSU NISHIMURAエッセイ

金沢・まち

「ここは何処?」
こころのなかで叫び、思わず不安もよぎる。

初めてその場に立つ旅人のようだ。

この地で生まれもう半世紀余りを暮らしているというのに、
そんな瞬間をたびたび経験する金沢のまち。
いまだに足を踏み入れたことがない場所ばかり。
無闇に何処へでも入ったら出れないとの経験則から全く知らない所も多い。

それでもちょっとの冒険心に駆られ入ったことのない路地へ入る。
「それにきっと近道だろうし、、」と。
下見板の板壁に挟まれ曲がった細路。生垣、板塀、黒瓦。

 

 

1−1路地

 

その先に道はあるの? とT字路を曲がる。
途端に右も左も北も南もわからなくなり、おまけにお日まさは雲隠れしている。

 

1−2路地奥

 

思わぬ石段、急に出くわした広見そして袋小路。
この路は近かったの?

 

 
1−3階段

 

 

進んでいるのか遠ざかっているのかは勘のみが頼り。
突然に目の前の展望が開けてまた閉じる。
ただ、こんなところがあったのだ!
と少年のこころは満ち足り、その場しか持ち得ない情緒に包まれてしまう。

展望開ける蛤坂やW坂(石伐坂)、陰にあるともなきや近所の名もなき坂は往来してきた。
今ではすっかり有名になった「暗がり坂」を初めて降りたのは40歳を迎える少し前のこと。
金沢のふたつの台地の間を抜ける犀川・浅野川に加え小さな川と用水も縦横に走る。

昔の水路も道になり、
呼称がきっとあるだろう、またそれと気づかぬ坂や橋が沢山に待ち構えている。
きむすこ(木虫籠)と呼ぶ細木の出格子を持つ町家。
その出格子が弁柄に塗られた茶屋街。

小さな子出入口も付いた欅板の玄関大戸。
武家屋敷の土塀、足軽屋敷。
路地通り一本出入するたび、坂を登り下するたびに景色と情緒が様変わりする。

 

1−4土蔵の造り

 

 

我家は城下の南端。北國街道沿いになる。
祖父が子供の頃には近所に関所の跡がまだあったと語っていた。

金沢の町家らしく白い漆喰が塗られた火除けの為のうだつ壁、高さのない二階連子窓。
家の前には「どぼそ」と呼ぶ側溝があり、家に入るにも1尺ほどの小さな橋を渡る。
用水沿いの家となれば、立派な橋を渡ることになる。

 

1−5うだつ壁(里見町あたり)

 

 

 

1−6用水と家の前の橋

 

 

 

一歩家の内に入れば、
後庭まで続く叩きの通り土間。天井のない吹き抜けの柱格子の間も漆喰が塗られ、
土蔵の作りにも似る。

仄暗い中そこに天窓からの明かりが差す。
土間は地下の氷室(ひむろ)にも通じ、年中冷やっこい。
奥や二階に、朱壁の座敷や茶室を備えた家も特段珍しいわけではない。

 

1−7天窓

 

兼六園もかつては金沢のひとの通り抜ける近道の庭でもあり、
城下の住みびとという感じが今よりずっと強かった。

雪は降り始めが綺麗と、早朝の兼六園で足跡のない新雪を踏む楽しみもあった。
唐傘山からの眺めもご馳走のひとつ。
ここも曲がりくねった空間の庭。

お堀の向こうは、石垣・海鼠塀・鉛瓦の金沢城。
城内は金沢大学があったため石川門の枡形までは誰でも入れた。
今は市民も観光客も出入りしやすいよう整備され以前の枡形たる面影は全く薄れている。

 
1−8現在の枡形

 

尾山神社山門に光るステンドグラス。
右も左も前も後ろもお寺ばかりの寺町、東山。

今もって不思議不思議。小さい町にお寺がいっぱい。
そこからは、街並みと川と雪を抱いた山々の眺望が開ける。

 

1−9川と山

 

この歩いて廻るスケールに驚くほど異種な風景が混じり込んでいる場所で、
情緒が体に染み入るように金沢の人は暮らしているのかもしれない

 

1−10曲がる用水と植木、橋